「聖書全体を貫く信仰義認」 ローマ4章1~12節

「聖書の学びの会」2022年6月29日
 
 法亢聖親牧師からのメッセージ

「聖書全体を貫く信仰義認」ローマ書の学びパート4  ローマ4章1~12節

 4章は、3章に引き続き「信仰義認」を扱っています。3章では、律法の行いとは別に、イエス・キリストの十字架の贖いに基づいた信仰義認について論じられていました。では、旧約聖書の時代において信仰義認がなかったのかと言いますと、決してそうではありません。パウロは、旧約聖書に登場する信仰の父アブラハムのことを引用して、信仰義認が、旧約と新約全体を貫いている大切な真理であることを明らかにしています。
 3節に、「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とありますが、これは、創世記15章の出来事を指しています。創世記15章6節に「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。子どもが与えられず、「あなたの子孫にこの地を与える」と言う神さまの約束がなかなか成就しないまま年月が流れていく中で、不安に駆られていたアブラハムを、神さまは天幕の外に連れ出し、「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい」、「あなたの子孫は、このようになる」と言われたのです。アブラハムは、その神さまのみ言葉を信じました。そして、その信仰が義と認められました。もし、行いによる義が認められるとしたら、人は、自分の行いを誇ることでしょう。誇りは、高ぶりとなり、結局、神なしに自分で自分を救えるとおごる、罪の中に逆戻りしてしまいます。信仰義認は、人間の誇りが入り込む余地を一切排除する、神さまの優れた救済方法なのです。また、子どもも、高齢者も、病の床にても、死の間際であっても、どんな人でも救われることができる、万人に開かれた救いの方法であるのです。
 9節から、パウロは「この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか・・・どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか」と問い、割礼にこだわるユダヤ人に対して、割礼と信仰義認の関係を語っています。アブラハムが創世記15章で信仰によって義と認められたあと、17章で割礼を受けていることを引き合いに出して、「彼(アブラハム)は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証として、割礼と言うしるしを受けた」(11節)と論じています。つまり、割礼を受ける受けないということが重要なのではなく、愛によって働く信仰が大事である(ガラテヤ5:6)と言っているのです。
 神さまは、私たちが誇り高ぶることがないように、「行いによる義」ではなく、ただ、神さまの恵みに感謝して生きるようにと、イエス・キリストの贖いによる「信仰による義」を備えてくださいました。「信仰による義」は、私たちを自由にしてくれます。私たちの父なる神さまは、因果応報の神ではなく、何の功徳もない私たちを信仰によって義と認めてくださる恵みの神なのです。この恵みの神さまに感謝して生きていきましょう。

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