「本気で祈る」 マタイによる福音書7:7~12

深谷教会聖霊降臨節第4主日礼拝2022年6月26日
司会:悦見映兄
聖書:マタイによる福音書7章7~12節
説教:「本気で祈る」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-497、463
奏楽:小野千恵子姉

説教題 「本気で祈る」                  マタイ7章7節~12節     

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」(マタイ:7:7新共同訳)                   
 私たちは祈る時、だめでもともと「だめもと」で祈ることが多いのではないでしょうか。しかしそれは、神さまが全能であり、不可能を可能に、無から有を造り出されるお方であることを信じないで祈っていることになるのではないでしょうか。
 イエスさまは、夜中に友人を訪ねて、パンを求めた人のたとえを語られました。「友人だということでは、起きてくれなかったが、執拗に頼んだので、しかたなくパンを工面してくれた。まして天の神さまは、もっと良いお方である。私たちの心からの願いを聞いてくださらないはずがない」(ルカ11:5~8)と言われました。イエスさまはこうも言われました。「信仰を持ち、疑わないならば、・・・この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」(マタイ21:21)と。
 聞かれる祈りの前に聞かれない祈りについて考えてみたいと思います。
「求めなさい。そうすれば、与えられる」とは、欲しい物は何でも私たちの思い通りに手に入る、また、どんなことも思い通りになると言うことではないのです。神さまが私たちのわがままな祈りにそのまま応えて下さったらどのようなことになるでしょうか。たとえば「あの国を滅ぼして下さい」との祈りに応えて下さったら、おそらく自分の国を敵国だとおもっている人もそのように祈るでしょうから、相手の国どころか自分の国も滅んでしまいます。そのように世界中の国々の人が敵国を滅ぼしてくださいと祈り合ったら世界はどうなってしまうでしょうか。そうこの世界はあっという間に滅んでしまうのではないでしょうか。神さまは、私たちに必要なことを私たち以上にご存知なのです。イエスさまは、神さまと私たちの関係を親子の関係にたとえて、「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイ7:9,10)と言われました。私たち人間のほうがよく求め違いをするのです。パンだと思って石を求めているのです。魚だと思って蛇を求めているのです。つまり気づかないうちに的の外れた祈りを多くしているのです。だがしかし真剣な祈りは、必ず聞かれると思います。ただし私たちの求めとは違った形で応えられるのです。また、私たちが今応えて欲しいと思う「時」と、神さまがふさわしいとされる「時」とは、これも違うのです。私たちの祈り(願い)が御心にかなった祈りでかなえてもらえるものであっても、「時」が満ちていないこともあるのです。祈りが聞かれない、否、いつまでたっても聞かれないで終わってしまったということもあることでしょう。日本聖書協会の理事長でもある、牧師の大宮 溥(ひろし)先生は、フォーサイスの名著である「祈りの精神」を若者にも興味を持ってもらえるようにとの願いを込めて「祈りのこころ」という題名にして翻訳をされ出版された方です。大宮先生は、11歳の御嬢さまを白血病でなくされた経験をお持ちです。そして、その時祈りの深い体験をされました。「恵里の発病以来、わたしはどんなに激しく祈ったことでしょうか。時々ふと、自分はこれまでこんなに激しく祈っただろうかと反省しました。牧師として、多くの教会の方、そうでない方・・・のために祈ってきました。わたしとしては、一つ一つ、心を打ちこんでやって来たつもりですが、我が子のために心を痛め、必死で祈るこの時にくらべると、比較にならないと思いました。・・・わたしは祈りの中で神さまを捜しに行き、神さまにしがみついて、恵里を助けて下さい、恵里を返して下さいと祈りました。しかし、ちっともよくならないのです。本当に自分の生命を取ってくださっても結構ですから、恵里の生命を助けて下さいと祈りました。・・・体内から血が流れ出すように力が抜けてゆき、死の冷たさに体温がいつも奪われているような思いで、ただただ神さまにしがみついている8か月でした。ところが、恵里が死んで、わたしの祈りが聞かれないままに終わった時、わたしはふと、朝に夕に祈り続けて、神さまとかたく結び合せていただいている自分に気づきました。『キリストがわたしのうちに生きておられる』(ガラテヤ2:20)という事実の発見でした。祈りは子どものためよりも、自分のためでした。恵里は、牧師である父を、神さまと更に深く交わらせるために、最後の役目を果たして召されたのです。わたしは厳粛な主の御業に居住まいを正す思いでした」(死の陰の谷を歩むとも)。
 すべての神さまの業には、「時」があり、それにふさわしい形があります。神さまは、私たちの思いを超えて一番ふさわしい時に、一番ふさわしい形で応えて下さることを信じたいものです(伝道の書3:11・口語訳)。

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