「行いによらず、信仰による義」 ローマ3章9~24節

「聖書な学びの会」2022年6月22日
 法亢聖親牧師からのメッセージ

「行いによらず、信仰による義」ローマ書の学びパート3  ローマ3章9~24節

 「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証されて、神の義が示されました」(21節)。聖書は、私たちが神さまに義と認められるために二つの方法を示しています。一つは、「律法の行いによる義」、もう一つは「イエス・キリストを信じる信仰による義」です。「律法による義」は、自分で、律法を守ることによって、義と認められようとすることです。しかし、「律法による義」によっては、律法を一つも漏らさず、完全に守らなければ義と認められることはできません。人類史上、だれも自分の行いによって義とされる人はいませんでした。一方、「イエス・キリストを信じる信仰による義」は、誰でも、どんな罪を犯した人でも、悔い改めて、イエスさまを信じるなら、義と認められるのです。
 パウロは、律法を持つユダヤ人も、律法を持たないギリシア人も、すべての人が罪の下にあると言います。詩編53編1~3節を引用し「義人はいない。一人もいない。悟る者はない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない」(10~12節)と、誰も、そのままでは神さまの前に義と認められることはできないことを明らかにしています。
 罪を犯した人は、必ず罰を受けます。この世においては、罪がばれなければ、罪から逃れることができるかもしれません。聖書は、「罪の代価は(報酬)は死である」(6:23)と言うのです。事実、誰一人、死をのがれることができません。しかし、私たちが受けるべき死と言う罪の代価を、イエス・キリストが十字架によって、代わりに払ってくださいました。何の罪もない、神さまのひとり子であるイエス・キリストが、私たちを愛するがゆえに、自ら十字架にかかり、罪の罰を受けて下さったのです。これを「イエス・キリストによる贖(あがな)い」と言います。ゆえに、誰でも、イエス・キリストの贖いを信じる信仰により、無代価で義と認められるのです。マルティン・ルターは、「神の義」ということがどうしても分かりませんでした。ルターは、神さまを「いくら頑張っても、とても認めてくれない厳しいお方」だと思っていました。義を追求すればするほど、罪の意識に苦しみました。教会の階段を、膝をついて一段昇っては祈り、また一段のぼっては祈っていた時、突然、魂の奥底に、聖書のみ言葉がひらめきました。「義人は信仰によって生きる」という、このローマ人への手紙1章17節のみ言葉でした。「そうだ。善い行いをすることによって救われるのではない。キリストを信じる信仰によって救われるのだ」と、その時、ルターには「神の義」が分かったのです。「信仰義認」、これは、いつの時代も忘れてはならない、また、再発見されるべき福音の真理です。誰であっても、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」のです。
 天の父なる神さま 私たち人間は、自分の行いによっては、どうしてもあなたによって義と認めてもらうことはできません。しかし、神さまあなたは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちの罪を赦して下さいました。感謝いたします。私たちはあなたを信じ、全てを委ねて歩んで行きます。 御子のみ名によって祈ります。アーメン       

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