「人のさばきと神のさばき」 ローマ2章1~12節

聖書の学びの会 2022年6月15日
法亢聖親牧師からのメッセージ
 
      「人のさばきと神のさばき」ローマ書の学びパート2     ローマ2章1~11節

 この箇所には、「さばく」とか「さばき」という言葉が8回出てきます。1節の「すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません」とのパウロの批判は、教会の中にいた、批評家のユダヤ人に向けられたものであったと思われます。
 彼らの「さばき」は、利己的な思い(2:8)から出たものであって、真理に基づくものではなく、偏見によるものであったようです。もしかすると「律法をもっている」自分たちは、「律法をもたない」異邦人とは違うという、異邦人を見下す思いがあったのかもしれません。パウロは、彼らに対して「あなたがたは他人をさばくことで自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです」(2:1)と、厳しく断じています。パウロは、「人のさばき」と「神さまのさばき」を対比させています。「ひとのさばき」は、何の益も生み出しません。人をさばくことで、自分自身を罪に定めるばかりか、神にかたどり造られた人(救われて神のものとなった人:エペソ4:24)を裁くことで、神に対しても高ぶった態度をとることになります。
 イエスさまは、こうおっしゃいました。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなた方は、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤(はかり)で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気が付かないのですか・・まず自分の目から梁(はり)を取り除きなさい。そうすれば、きっと見えるようになって、兄弟の目から塵を取り除くことができます。」(マタイ7:1~5)一方「神さまのさばき」は、真理に基づき(2:2)正しく(2:5)えこひいきがない(2:11)ものです。そして、何よりもいつくしみ深く、忍耐と寛容(2:4)に満ちています。
 神さまは、私たちを罪に定める代わりに、最愛のひとり子であるイエス・キリストにすべての罪を負わせ、十字架による贖いを成し遂げて下さいました。これ以上の慈しみがあるでしょうか。ゆえに、イエスさまを信じる者は、「永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移ってい」る(ヨハネ5:24)のです。ですから、私たちは、主イエスの十字架で罪赦された者として、他の人の負い目を許すものでありたいと思います。
 「神さまのさばき」には悪に対する審判だけでなく、善に対する報いが備えられています。「神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます」(2:6)「善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉と平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです」(2:10,11)
 人はイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められますが、「行い」に応じて報いられます。狭い心で人をさばくのではなく、神さまのあわれみと寛容で、他者をゆるし、善を行うのにあくことなく、親切な言葉と行いを心がけていきましょう。たとえ腹を立てることがあっても、「神さまのさばき」にすべてをゆだね、平和をつくる者として歩んでいきたいと思います。

天の父なる神さま
 私たちの視野は狭く、目の前の事しか見えません。他人の欠点が気になります。私の心の目を開き、心の視線を引き上げて下さい。神さまがもっておられる慈しみと寛容の心をもって、隣人を見ることができるようにしてください。
 御子のみ名によって祈ります。アーメン  

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