「交わりの回復」 使徒行伝2:1~8

深谷教会ペンテコステ礼拝2022年6月5日
司会:廣前成子姉
聖書:使徒行伝2章1~8節
説教:「交わりの回復」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-346、21-343
奏楽:杉田裕恵姉
聖餐式:保母光彦牧師

【説教要旨】法亢聖親牧師

説教題 「交わりの回復」                使徒言行録2章1節~8節       
今週の招きの言葉 
 「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)あせ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。(創世記 11:9)
 
 聖霊降臨の出来事は、言葉の問題と深く関わっています。使徒言行録2章には、聖霊が降った弟子たちは「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話した」とあります。それを聞いた人々は皆あっけにとられ「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と驚き怪しんだというのです。
 ユダヤの三大祭りの一つペンテコステ(五旬節、小麦の祭り)には、「過ぎ越しの祭り」のようにイスラエル各地からだけでなく、ディアスポラ・ユダヤ人つまり外国に住むユダヤ人たちもエルサレム神殿のあるエルサレムに集まってきていたのです。使徒2章9節~11節に様々な国や土地の名が記されています。何種類の言語が飛び交ったことでしょう。聖霊に満たされ、急に外国語を話せるようになった弟子たちはもちろん、それを聞いた国々から過ぎ越しの祭りに来ていた人々は驚き怪しんだことと思います。
 ところが、ペンテコステの出来事よりはるか以前に、旧約聖書の創世記に、バベルの塔の物語が記されています。その物語によれば当時は、一つの言葉であったと記されています。だが、人々は神さまに対抗しようと神さまがおられる「天」に向かって高い塔を築き始めたのです。こうした巨大な建造物を造るためには、技術力だけでなく経済力、そして人間の力を結集する組織力や制度が必要となります。人間はこうした人間の力を結集して、人間以上のもの、神の領域にまで達しようとしたのがバベルの塔の物語です。しかし、創世記のバベルの塔の物語とIT技術や核開発などの途轍もない技術を手にした私たちが生きている21世紀の現代の状況との間には、大きな違いがあります。それは、バベルの町の人々は「神さま」の存在を意識していました、「神さま」を一つの目的としていたのに対して、今日では、「神さま」をそっちのけで人間中心に「バベルの塔」を建てることに奔走している点です。このことは、バベルの塔の物語以上に、私たちが混沌とした怖ろしい状況の下にいるということを示しているのではないでしょうか。
 さて、創世記の物語に戻ります。神さまと同じになろうと考えた人間の思い上がりに対して、憤られた神さまは、このバベルの町の塔の建設を阻止するために、それまで一つであった人間の言葉を混乱(バラル)されたのです(創世記11:9)。その結果、人間の間でコミュニケーションが取れなくなり、この企ては頓挫したということになったのです。
 この物語は、どうして今日の世界には、多くの多言語があるのかと言うことの「原因物語」であるのですが、ここで問題なのは、言語が多くあるから人間同士コミュニケーションがとれなくなったということではないのです。ここでの問題は、同じ言語を使っている人同士でも言葉が通じ合わない、理解し合えない、交わりが形成されないということがあるということです。厳密に言いますと、多くの言語が問題ではなく、「神さまと人間の交わりを破壊し、同時に人間と人間の交わりも破壊する人間の高慢さがバベルの塔の物語の伝えようとする問題」だというのが本質だということです。聖書によりますと、神さまとの交わりと人間同士の交わりは切り離すことのできないものなのです。「神さまを愛すること」と「隣人を愛すること」が最も大切な戒めであるように(ルカ10:27)、このどちらかの交わりを破壊するものは同時に、もう一つの交わりを破壊することになるというのです。バベルの塔の物語が、これまでのべてきましたように、二つの交わりの破壊を伝える物語だとしますと、聖霊降臨の出来事は、それと正反対な、神さまと人間とのコミュニケーションと人間と人間のコミュニケーションの回復がされていくことを指し示す物語であるということができます。神さまは、ペンテコステの日に聖霊を弟子たちに下し、弟子たちの口を通して、再びご自分の御心を人々に語り伝え、人間と神さまとの交わりを再建(回復)し、また神さまのもとにおける人間と人間との交わりを再建(回復)する御業に着手されたのです。
 実を言いますと、このような御業は、在世中のイエスさまがなさっておられた愛の業ですが、ペンテコステの出来事を通して弟子たちに、そして私たちに聖霊を通して引き継がれることになったのです。聖霊は、実に復活の主の霊そのものです。現在では、イエスさまは、聖霊となられこの世に来られ、また私たち一人一人の内に宿り生き働かれておられるのです。つまり、私たちは、イエスさまのお力を得て、イエスさまと同じ働き(愛の業)をするようにと導かれています。このように聖霊によって、人間の高慢さが打ち砕かれ、愛の業ゆえに失われていた、二つの交わりが神さまご自身の恵みによってもう一度再建(回復)されていくのです。 
 私たちが目指すのは、バベルの塔のような、「高さ」「大きさ」、強さ」に達するというものではなく、イエスさまが生涯かけて示されたように、「低さ」、「小ささ」そして「弱さ」に注目し、みんなが互いに支え合うような「エクレシア・神の民の集い・教会、神の民の世界」を建ち上げていくことです。 こうしたことを追い求める上で本日の聖書の箇所の2章4節と2章6~8節は、非常に示唆に富んでいます。神さまは、神さまと人間の交わり、人間と人間の交わりを回復させるためにいろいろな言語、それぞれの人の使う日常的な言葉を用いようとされたのです。そうです。神さまは、バベルの塔以前のように一つの言語に統一して、二つの交わりを回復しようとされなかったのです。ペンテコステの出来事は、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一」(エフェソ4:5,6)ですが、福音を延べ伝える言葉はさまざまであり、伝える方法もさまざまであることを伝えています。人種や性別そして言語を超えた主の愛による一致、即ち多様性による一致です。聖霊によって愛の完成者であるイエスさまを心の内にお迎えし、愛をもって隣人に接し、福音を伝えていくことが「真のエクレシア教会を建ちあげ、神の愛がご支配する神の国」を建設していくことになるのです。また、同じ神さまの恵みが、言葉だけでなく様々な形で伝えられていくことをも伝えています。癒しを必要としている人には癒しを、食べ物を必要としている人には食べ物を、そして交わりを必要とする人には交わりを、具体的な様々な形で宣教は、進められていくのです。 本日より聖霊を受け、愛の完成者であるイエスさまを心の内にお迎えし、愛と誠をもって隣人に仕え、また、聖霊の働きを祈り求めつつ、皆様と共に教会形成と宣教の業を担ってまいりたく思います。

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