「執り成し」 ローマ人への手紙8:26~30

深谷教会復活節第6主日礼拝2022年5月22日
司会:斎藤綾子姉
聖書:ローマ人への手紙8章26~30節
説教:「執り成し」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-493、511
奏楽:野田治三郎兄

今週の招きの言葉

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)
 
 キリスト者は、イエス・キリストを救い主と信じ、「神さまからの賜物としての永遠の命」(ローマ6:23)も信じています。しかし、実際にこの世の人生を歩んでいますと、とても救われているというような状態とは言えない日々を送ることもあります。実際、苦しいことがあるのは、私たち人間だけでなく、地球温暖化などにより動物の世界、植物の世界、この自然界すべてがうめき苦しんでいるように思います。
 信仰による救いを説いていた使徒パウロが、「現在の苦しみ」とか「被造物がすべて今日まで共にうめき」苦しんでいると書いたのは、私たちを含めてあらゆる存在が、いまだに救いの完成にはいたっていないということを言おうとしているのだと思います。救いの完成とは、使徒パウロ流に言えば「神の子とされること」です。どういうことかはつまびらかにはわかりませんが、推測しますと将来いつの日に一切の苦しみから完全に開放された祝福と栄光に包まれた状態になるということだと思います。それを信じて待ち望む。苦しいけれども忍耐して待ち望むのがキリスト者であるとパウロは言っているのです。この「苦しいけれども待ち望む」と言う信仰を支えるのが“霊”であるというのです。
 信仰さえあればどんな時でも祈ることができるでしょうか。そうではありません。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と詩編130編1節にあるように、あまりにも苦しい時、祈る言葉が出てきません。主を呼ぶというより、ただうめき声をあげるだけです。そのような、「弱い私たちを助けてくださる」のが、復活の主の霊、つまり“聖霊”なのだと使徒パウロは、言うのです。その“霊”が「言葉に言い表せないうめきをもって執り成してくださる」と言うのです。
 このパウロの言う「執り成し」「助ける」とは、“共に”、“代わって”、“重荷を担う”という三つの言葉を合成したものであると新約学者の松木治三郎先生は、説明しています。
 夏目漱石の「硝子戸の中(うち)」と言う晩年に書いた随筆に彼の思春期の思い出が書かれています。漱石の母親は、彼が思春期の頃召天しました。その母親が、二階で昼寝をしていた漱石少年が突然悪夢にうなされて苦しみもだえながら大声で母を呼んだ時、現れたというのです。その時のことを漱石は次のように記しています。「いつどこで犯した罪なのか知らないが・・子供のわたしにはとうてい償(つぐな)うわけにはいかない苦しみに襲われたのである。すると母はすぐに我が枕元にかけつけてきて、『心配しないでいいよ』と償いの約束をしてくれた。母が自分に代わって重荷を担ってくれるということばに安心して眠りについた。この出来事が全部夢なのか、また半分だけ本当なのか、今でも疑っている」と。
 この漱石が少年の頃体験したことは、「神の右に座して私たちのために執り成してくださるキリスト=復活の主イエスの霊」のことを明らかにしていると思います。私たちの努力や頑張りでは、とうてい償うことも、解決することもできないで苦しんでいる時、私たちは執り成しのありがたさを感じるのではないでしょうか。
 「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職をもっておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ7:24,25)とあるように、ヘブライ(へブル)宗教の伝統から言うと、もともと執り成しと言うことは祭司の役割だったのです。新約聖書も旧約聖書を受け継ぎイエス・キリストを執り成す祭司と位置付けています。
 こうした流れから、使徒パウロは、執り成しの働きを“霊(聖霊)”とローマ書8章で表現しました。さらに、この執り成しによって支えられて生きる者にとっては、「万事が益となるように共に働く」と大胆な言い方をしました。
 人生には、思い通り(計画通り)に行かないことや嫌なこと、起こって欲しくないことが沢山あります。パウロは、自分の経験からそう述べているのです。ユダヤ教の祭司になろうとして学んでいたのに、自分が迫害していたキリスト教の使徒になりましたし、使徒としてアジア州の北へ綿密な計画を立てて伝道しようとしましたが、“霊”に止められ、まったく逆の方向ギリシャ伝道へと導かれました。また、パウロは、ユダヤの法廷で裁かれそうになった時、“霊”の働きによって彼がローマの市民権をもっていた故に、ローマ皇帝の下で裁判を受ける権利を行使して、幽閉された形でしたがローマに行くことができました。そうです。かえってローマ兵の監視下にあってユダヤ当局者の魔の手から守られ、ローマに行くことができ念願のローマで宣教をすることができたのです。見えざる“神さまの霊”の執り成しによって万事が益となったのです。このように、人の思いを超えた神さまの御心のみがなるのです。自分にとってマイナスな出来事が自分にとって有益だったと考えられれば、それは救いとなります。もっとはっきり言えば、人生を振り返った時、何一つ無駄なことがなかったと思えるなら、それこそ素晴らしいことではないでしょうか。
 私たちの人生の一つ一つの出来事が、私たちの意識と努力とは別に、きちんと連動しているのです。そうです。私たちが気づかないところで執り成しが行われているのです。「霊」が働いている。そう信じる時、私たちは、「何ものもキリストの愛からわたしたちを引き離すことができないのだ」とのローマ書8章39節の結びの言葉へと導かれていくのではないでしょうか。

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