「霊と真理(まこと)をもっての礼拝」 ヨハネ4:16~26

2022年5月18日
法亢聖親牧師「聖書の学びの会」

             「霊と真理(まこと)をもっての礼拝」 (ヨハネ4:16~26)

イエスさまは、サマリアの女の結婚に関して言い当てています。「あなたには5人の夫がいましたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたはありのままを言ったわけだ」(18)。この女性は、イエスさまの預言に、感激して「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」(19)と言いました。また、「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなた方は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(20)と言いました。
 イエスさまはそうではない、「あなたがたが、この山でもない、エルサレムでもない所」で礼拝できる。それは「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからである。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(23)と答えられました。ここでヨハネは、もうゲリジム山でもない、エルサレムのシオンの丘でもない、あなたが本当に霊と真理をもって、父なる神さまを礼拝する時、そこに本当の礼拝があるのだと言われたのです。この考え方は、大きな力を持っています。私たちの教会も一つの制度です。しかし教会にとって、一番大切なことは、まことの礼拝を捧げることなのです。霊と真理とをもって捧げる礼拝こそ、教会を教会ならしめるのです。しかし一般的にはどう捉えているかと言いますと、「女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られる時、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます』」(25)。
 この女性は、救い主が世の終わりにくるということは教えられていたわけです。それに対して、イエスさまが、「それは、わたしである」と言われました。このイエスさまの言葉の意味は、どのような意味なのでしょうか。
 その答えは、マタイ福音書の次の御言葉の中に現されています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)
 サマリアの女が自分の生活の破れを指摘された時、その問題に深くたち入ることなく、イエスさまは、礼拝と言う別の問題に話を転換されました。実は、礼拝は、破れ傷ついた日常生活とかけ離れたことではないのです。ユダヤ教では、安息日に礼拝にでることが律法の規定により強制されていました。罪祭(ざいさい)や燔祭(はんさい)や清めの捧げものを携えて礼拝に出ていたのです。そう非常に生活に根差したものでありました。新しいイスラエルの民である私たちの礼拝もその意味では同じことです。主の御臨在する恵みの座であり、そこでは、讃美と感謝と祈りと懺悔がささげられ、神さまからの恵み、贖い(赦し)と生きる希望と力(知恵)が与えられるのです。何よりも神さまの愛、赦しの宣言と命の御言葉が与えられるのです。
 人間は、現実の罪の身(生身)を携えて生ける神さまの前に出、そこで罪の清めが与えられ、新しい生活が与えられることが必要なのです。それがどこで与えれらるのか。真の礼拝にどこで与かれるのか。彼女は、切実な思いで問うたのです。当時のサマリア人は、エルサレム神殿では礼拝することをゆるされず、ゲリジム山に神殿を建てそこで礼拝をささげていました。当時、エルサレム神殿かゲリジム山の神殿かどちらが本当の神殿かと言い競っていました。しかしイエスさまは、神殿と言う場所が問題ではない「霊と真実をもって礼拝」(4:23)することが根本だと言われました。 「霊」とは「神さまの人間に対する生きた働き」かけであり、「真理」とは「主イエスによって明らかにされた神の現実」であると言っています。そしてこの神さまの生きた働きを運ぶ者とは、「キリストと呼ばれるメシア」であるが、それは「あなたと話しているこのわたしである」(4:26)とイエスさまは語られました。つまり生けるイエス・キリストが「霊と真理」という「命の水」を与えて下さり、それを人々が「霊と真理をもって」、つまり信仰と真実をもって受け取り、それに応えるところで、真の礼拝がささげられ、神さまと人間が命と愛にあふれた交わりに入ることができるのです(エゼキエル47)。主イエスは、「乾いている人はだれでも、わたしのもとに来なさい」(ヨハネ7:37)と招かれました。礼拝において私たちは、そのイエスさまのところに行って命の水を与えられ、霊的な渇きをいやされるのです。
 復活後のイエスさまは、内住のキリストです!(Christ in us,聖霊による内住)と言う形で共にいて下さるのです。私たちは礼拝においてキリストを私たちの内にお迎えし、キリストの命と愛を注いでいただくのです。そしてその恵みが内側から外へと流れ出していくのです(4:14)。
サマリアの女は、主イエスに出会って自分の渇きをいやされた時、今まで避けていた人々の所に行って、主イエスのことを伝えました(4:42)。-人々は、イエスさまを「この世を救う救い主」と信じたのです。(これは、イエスさまの弟子たちによるサマリア伝道の先取りの記事であるのかもしれません。そう、異邦人伝道の先駆けを指し示す出来事です。)

参考
1 レビ記1章 
「燔祭」とは、へブル語「オラー」、ギリシア語「ホロコースト」
  牡牛、羊、やぎ、鳩(はと)を祭壇で焼いて神にささげる儀式、犠牲・生贄(いけにえ)、殉教などの意。
2 レビ記2章 
「素祭」とは、過去の恩恵の記念の捧げもの 
3 レビ記3章
「酬恩祭」とは、神さまの恵みの感謝の捧げもの。また、神さまと人との交わりの捧げもの。
 ― 神さまにささげたものの一部を、共に食指、交わりを深める。―
4 レビ記4章
「罪祭」とは、罪の贖いの捧げもの
5 レビ記5章~6章7節
「衍祭(えんさい)」とは、人に対する咎(とが)の処理方法 (衍:えん、はびこる)
6 Ⅰコリント 3:16 神の宮、6:19 聖霊の宮  ヨハネ2:21

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