深谷教会復活節第4主日礼拝2022年5月8日
司会:西岡義治兄
聖書:ルカによる福音書20章24~29節
説教:「見たから信じたのか」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-411、226
奏楽:野田治三郎兄
「十二人の弟子の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」(ヨハネ20:24)
本日の聖書の箇所には、イエスさまの12弟子の一人トマスが登場しています。
復活されたイエスさまがほかの弟子たちに現われた時、トマスは不在でした。仲間の弟子たちが興奮気味にイエスさまはよみがえられ我々の前に現われたと伝えたのですが、なにせイエスさまが十字架刑で召されて三日目の事でしたので、その場に居合わせなかったトマスには信じられないことであったのです。「死者がよみがえるということはありえるのか。」「弟子たちが見たのは亡霊ではないのか。」などの考えが、トマスの頭の中を去来しました。ですから、「あの方の手に釘跡(くぎあと)を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(20:25)と言ったのです。このように言ったトマスは、一体どのような人物であったのでしょうか。讃美歌21の197番「ああ主のひとみ」の3節では、「ああ主のひとみ、まなざしよ、疑いまどうトマスにもみ傷しめしてしんぜよと♪」となっています。トマスは、現代の私たちを代表しているかのようです。そうです、ヨハネ福音書は、AD90年代に書かれたのですから、ギリシア、ローマの教会の人々の中には、復活されたイエスさまと直接会ったことのない人たちが多くなっていたのです。ですから、イエスさまの復活に対する疑問が、もはや抑えがたいものになっていたことが、このトマスが登場する本日の聖書の出来事の背景にあると思われます。「イエスさまは、本当によみがえったのか。この問いは、まだ生まれて日の浅いキリスト教会にとって、危機存亡の重大な問題であったのです。そんな時代を代表するかのように、トマスが登場しています。
今や彼は、2022年の時を超えて現代人を象徴するのかもしれません。「あの方の手の釘の跡を見、この指を釘の跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」とトマスは言いました。このような態度は、科学的実証的態度に通じます。こうした態度は、現代人の特徴ともいえます。現在は、情報があふれフェイクニュースやフェイク情報が横行する時代です。ですから、自分の目でしっかり確かめ、理性を働かせて与えられた情報を正確に理解することが必須です。つまり、なんでもかんでも疑いの目で見る懐疑主義ではなく、実証主義的に真偽(しんぎ)のほどを追及することは、現代人にとって特に大事なことだと思います。
トマスは、不思議な人物です。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)では、12弟子のリストの中に名前が記されているだけで、非常に陰の薄い弟子の一人ですが、ヨハネ福音書では、違います。本日の聖書の箇所を入れて三つの場面に登場し存在感をがぜん増しています。ヨハネ福音書で最初に登場するのは、11章のラザロの復活の箇所です。イエスさまが「『ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼らのところへ行こう』。するとディディモ(双子)と呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」。イエスさまは、「死の現実から生の世界へ」という復活の指針を携えているのに、トマスは、何を思ったのか「生の現実から死へ」の方向に向かおうとしているのです。
次に登場するのは、キリスト教の葬儀の時によく読まれる14章です。十字架を間近にされたイエスさまは、「わたしがどこに行くのか、その道をあなた方は知っている」と告げられた時、「分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と疑問を呈しました。そう「死の先の道など分かりません。」とここでも現代人と同じような態度をとっています。トマスは、わたしたちの心の中の疑問を率直に口にしています。イエスさまは、トマスの、私たちの疑問に対して答えられました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ」、だれも父のもとには行くことはできない。」(ヨハネ14:6)。いずれにしてもトマスが登場している両場面で共通しているのは、死に関係しているところでトマスは発言しています。まるで彼は、死に方において人生をとらえているかのようです。そして、他の弟子たちが皆復活されたイエスさまに出会って喜んでいるにも関わらず、イエスさまの復活を率直に信じられない人間として今朝の聖書の箇所のトマスは立っているのです。
信じるということはどういうことなのでしょうか。目で見、手で触って確かめなければ信じることはできないのでしょうか。証拠をつかまなければだめなのでしょうか。よく考えるとそうではないのです。たとえば、他者(人)の心を信じる時、まず確証をつかんで信じるのではないのです。人の心や愛情を確かめることはできません。いや、確かめようとすれば、かえってその関係は壊れる可能性があるのです。つまり、確かめることが先ではなく、信じることが先なのです。
イエスさまは、弟子たちに目で見、手で触ってみるまでは信じないと言ったトマスを叱責されませんでした。反対に、あなたの指をここに入れてみなさいと言われました。トマスは実際に触ったでしょうか。本日の聖書は、そのことにはふれていません。ただ十字架に釘付けされたイエスさまがトマスに向かって語られたこと、それに圧倒されたトマスの反応を生き生きと記しているだけです。そして、イエスさまは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)とトマスを通して現代のわたしたちに語られておられるのです。再びイエスさまはトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)。私たちは、聖霊となられて働かれるイエスさまを肉眼で見ることはありません。ですから、私たちには信じるかどうかが問われています。ペテロ第1の手紙1章8節でペテロは、ローマの教会の人々にこう告げます。「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています」と賞賛しています。私たちも「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており」ますと声を出して言えるものでありたい。