「神さまが与えてくださる平和」ルカによる福音書24:36~49

深谷教会復活節第2主日礼拝2022年4月24日
司会:蜂巣恵子姉
聖書:ルカによる福音書24章36節~49節
説教:「神さまが与えてくださる平和」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-325、196
奏楽:小野千恵子姉

 本日の聖書の箇所は、礼拝の場面を想起させます。復活されたイエスさまが一つ所に集まっていた弟子たちの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」(24:36)と言われました。このことは、今日の世界中の教会の礼拝において起こることです。復活され、今は聖霊となられ生き働かれておられるイエスさまの声が礼拝の中で聞こえることが重要なことなのです。今、私たちがおささげしているこの礼拝にも復活の主が聖霊となられご臨在されておられるのです。また、牧師の口を通して命のみ言葉をお語りになられるのです。
 イエスさまは、弟子たちの真ん中に立たれ「平和があるように」と言われました。イエスさまの十字架の死と復活、そしてイエスさまを見捨てて逃げ去った弟子たちへの顕現(けんげん)で神さまが造りだしてくださったことは、何よりも神さまと私たち罪人との間の平和です。み子イエス・キリストの十字架の死と復活の命がなければ、そして、十字架の上でイエスさまが「罪人の罪を赦してください」と父なる神さまに祈って下さらなければ、神さまに背いて生きているしかない罪人と神さまとの間に平和はないのです。イエスさまの十字架の死と復活なくして私たちが神さまの方に向き、神さまに向かって歩むことなどできません。「あなた方に平和があるように」と言う御子の宣言を聞くこと、それが礼拝で起こることだと思います。神さまが下さる平和は、キリストを通して与えられる神さまとの平和です。そして、もう一つ神さまが与えて下さる平和によって人と人との平和がもたらされるのです。 本日の聖書には、そのことが解き明かされています。
 弟子たちが集まっている時、復活の主イエスが現れたということは、即ち、公同の礼拝に聖霊となられた主・復活の主が現れて「あなたがたに平和(平安)があるように」と言われるということを指し示しています。
 そのことを詳しく見てまいりましょう。ルカ福音書24章36節には、エマオ途上で二人の弟子が復活されたイエスさまに出会い、そのグットニュースを伝えるためにエルサレムに引き返し、他の弟子たちに話している場面が記されています。
 イエスさまは、二人の弟子の話を半信半疑で聞いていた弟子たちの真ん中に、立たれ「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは、突然現れたイエスさまを亡霊だと思い恐れました。24章37節に次のように記されています。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と。イエスさまが亡霊となって、現れ自分たちを断罪するために来られたと思って恐れおののいたのです。なぜなら、弟子たちは、イエスさまが3日前の晩に捕えられた時イエスさまを見捨てて逃げ去ったからです。
 ところが復活されたイエスさまは、咎(とが)めることなく、否、とがめるどころか彼らの真ん中に立たれ「エイレーネーヒューミン(あなたがたに平和があるように)」と言われたのです。エイレーネーヒューミンとは、ギリシャ語で、イエスさまが話しておられたヘブル語に言い換えますと「シャロームラーカム」となります。ヘブル語の「シャローム」には、「平和」「平安」という意味があり、そして、「ラーカム」には、「あなた方に」という意味があります。つまり、シャロームには、「平和」と言う意味のほか「平安」と言う意味があり、「平安」とは、「心が穏やかな状態」を指します。ユダヤ人にとって心が穏やかになるということは、神さまが共におられると感じる時です。でもそれはユダヤ人だけの事ではなく、日本人もそうです。お守りなど携行する人が多くいます。ユダヤ教徒やキリスト教徒は、八百万の神ではなく、全能の神さま、父なる神さまにより頼みます。特に、私たちキリスト者にとっての平安は、父なる神さまが共にいて下さる<インマヌエル>ということを確信した時、どのような悪い状況の中にあっても心が穏やかになるのです。しかし、この時の弟子たちは、恐れによって心が乱れていましたので「シャロームラーカム(あなた方の心が平安である(穏やかになる)ように)」と語りかけられてもまだ、復活されたイエスさまだと信じられず、恐れおののいていました。そこで、イエスさまは弟子たちに「手と足をお見せになった」(24:39)のです。ただ言葉をかけられただけでなく、イエスさまは弟子たちに手と足をお見せになり亡霊ではなく、本当に復活された(よみがえられた)ことをお示しになられました。その手と足には、十字架にくぎで打ちつけられた傷跡が痛々しくありました。その御傷は、まぎれもなくイエスさまである証拠です。それでも、弟子たちは喜びのあまり信じられず、不思議がっていたので、イエスさまは、食べ物(焼いた魚)を所望して彼らの前で食べられた」(24:42,43)。
 本日の聖書の箇所の平行記事である、ヨハネ福音書では、ヨハネ20章20~22節で、イエスさまは、「手とわき腹をお見せになった。・・イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。聖霊を受けよ。・・父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」とあります。イエスさまの2回目の「シャロームラーカム(あなたがたに平和があるように)」に聖霊が働き、ようやく弟子たちの心に赦しの言葉となって響きました。主イエスにとがめられ裁かれる、そうした不安と恐れに満ちていた弟子たちの心が一気に解放されたのです。自らが犯した罪に対する裁きから逃れられないと感じている人、いよいよ今までのツケを支払わなければならないと自覚している人にとって、赦されるということは、至福の喜びにほかなりません。弟子たちは負い目を赦され喜びに満たされました。そんな、罪赦され解放された弟子たちに、イエスさまは、続けて言われました「だれの罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される」(ヨハネ20:23)と語られ赦しの宣教の業を弟子たちに託されました。このことは難しいことではなく、「あなた方がわたしに赦されてうれしかったのなら、あなたがたもあなた方に対して罪を犯し、裁かれるべき人、裁かれて当然な人をゆるしてあげなさい」と言うことです。そうやって赦される喜びを伝搬させていけば、この世から不安は消え、世界が平和に満たされる、そう語っておられるのです。こうした、罪の赦しの恵みに礼拝を通して与ることができるのです。また、その恵みを宣べ伝える派遣の使命が与えられ聖霊の助けによってその使命を果たすことができるのです。
 私たちは、この罪の赦しの喜びと死からの解放された復活の命・永遠の命にあずかるために、また洗礼による救いの更新である聖餐の恵みにあずかるために、主日ごとに教会に集っているのです。この喜びを一人でも多くの人々に伝えていきたいものです。

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