復活前第1主日礼拝(棕櫚の主日礼拝)
司会:佐久間洋司兄
聖書:マタイによる福音書26章36~46節
説教:「ゲッセマネの祈り」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-311、303
奏楽:小野千恵子姉
本日の棕櫚の主日から受難週に入ります。そして、本日示されている聖書の箇所は、イエスさまが十字架につけられる前日の晩の出来事です。今やイザヤの苦難の僕と言うメシア預言が成就しようとしています。イエスさまは、最後の最後にゲツセマネの園で祈りの格闘をされました。「ゲツセマネ」とは、「オリーブ油搾り場」と言う意味があり、イエスさまが血の汗を流されて祈られたあり様をその名はきわだたせています(ルカ22:44)。
イエスさまは、最後の晩餐を終えられ、弟子たちと共にオリーブ山にあるゲツセマネの園と言うところへ行き、その園の奥にペトロとゼベダイの子の兄弟ヤコブとヨハネの三人を連れて祈られました。イエスさまはそこで「悲しみもだえ始め」(マタイ26:37)、彼らに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れずに、わたしと共に目を覚ましていなさい」(26:38)と言われました。イエスさまは、かつて、ペトロとヤコブの兄弟だけを連れて高い山に登られ、この三人の前で光輝くお姿に変貌され、モーセとエリヤが仕えるという光景を見せられ、ご自分が「神の子」であることを示されました。モーセは、律法を神さまから授かった人物、エリヤは預言者で死ぬことなく天に引き上げられた人物でメシアの先駆者としてこの世に降ってくると目された人物です。山上の変貌の記事は、イエスさまが復活される前で一番イエスさまが、「神の子」であることを強烈に示された記事であるということが言えます。しかし、本日の聖書の箇所には、その神々しいお姿と全く正反対の弱々しいイエスさまのお姿が記されています。このことは、イエスさまが、「神の子」であると同時に「人の子」であることを示しているのではないでしょうか。
イエスさまは、地に伏して祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)
神さまを父と呼ぶ神の子であるイエスさまとしては、トホホな祈りではないでしょうか。
世には、立派に死んでいった人が大勢います。真理のために毒の杯を飲んだソクラテスをもちださなくても、イエスさまの弟子はじめ数えきれないほどたくさんの弟子たちが堂々と殉教していったのです。日本でもキリシタンの多くの人々が殉教しました。その本家本元のイエスさまが一体死を前にして、何を恐れられたのでしょうか。ポンテオ・ピラトでしょうか、ユダヤの最高法院でしょうか、イエスさまを十字架につけよと叫んだ群衆でしょうか。
イエスさまはかつて次のように言われました。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」(ルカ12:4)
もしもイエスさまが自分を殺そうとしているピラトやこの世の人々を恐れ、肉体の死を恐れていたとすれば、自分の言葉通りに生きられなかったことになってしまうのはないでしょうか。私はそうではないと思います。ご自分で言われた通り、イエスさまはそのようなことは恐れておられなかったのです。それでは何を恐れておられたのでしょうか。実は先のイエスさまの言葉の続きにこの疑問を解くヒントがあります。ルカ福音書12章5節「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威をもっている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。イエスさまは、ピラトを恐れたのでも、肉体の死を恐れたのでもなく、まさにこの方「殺した後で、地獄に投げ込む権威をもっている方」を恐れておられたのです。なぜならそのお方は、今まさにイエスさまを地獄、即ち陰府(よみ)へ投げ込もうとされておられたからです。
この夜ゲツセマネの園で、人類の歴上決定的な重大なことが天の父なる神さまと子なるイエスさまの間で語り合われていたのです。
十字架にかけて我が子を殺すということは 、父なる神さまにとって腸(はらわた)がちぎれるほどの決心であり、それを受け入れるということは、子なるキリストにとっては苦しみもだえる闘いであったのです。私たちの神さまは全能の神さまです。その神さまがこの道しかないと決断されたのです。ヨハネ福音書は、父なる神さまがみ子イエス・キリストを世の罪を取り除く「神の小羊・犠牲の小羊」として遣わされたことを伝えています。「バプテスマのヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」(ヨハネ1:29)。私たちの原罪を贖い清め、私たちを神の子として生まれ変わらせる救いの道は、全き神の子の血潮以外ないのです。だがその犠牲の血を流すみ子イエス・キリストの身になってみれば、父の御心を受け入れることはたやすいことではなかったのです。
「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心がおこなわれますように」(マタイ26:42)
イエスさまは祈りの格闘の最後に、父なる神さまの決定を受け入れられました。弟子たちは、すぐそばで眠りこけています。なんという皮肉な光景でしょうか。しかし、反対に言えば、私たちが何も知らないで眠りこけている時にも、父なる神さまは、イエス・キリストを通して根源的な決定的な決意(救いの御業)を始めておられるのです。
イエスさまは、「三度目も同じ言葉で祈られた」(マタイ26:44)。この「あなたの御心が行われますように」というのは、「主の祈り」(マタイ6:10)の言葉です。また、弟子たちに「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」(マタイ26:41)と言われたこの言葉も「誘惑に合わせず悪いものから救ってください」と言う「主の祈りの言葉」(マタイ6:13)を思い起こします。イエスさまは、弟子たちにそのように言いながらご自分に言い聞かせておられたのです。「十字架を背負うことを放棄する」誘惑を受けておられたからです。
イエスさまは、ガリラヤにおられる時から、一人で祈る時をもっておられました。父なる神さまと一つとなる時と場所をもっておられました。ゲツセマネの祈りもこうした日々の土台の上になされた祈りです。私たちもイエスさまが示されたように日々の生活の中で、父なる神さまと交わる時と場所を持ちたく思います。こうした祈りの座を持っていなければ、祈らなければならない時祈れなくなるのです。「心は燃えていても、肉体は弱い」(マタイ26:41)のです。「誘惑に陥らないように、目を覚まして」祈る習慣を身に着けたいものです(マタイ26:42)。