「神の言葉で生きる」マタイによる福音書4章1~11節

受難節第4主日礼拝2022年3月27日
聖書:マタイによる福音書4章1~11節
説教:「神の言葉で生きる」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-58

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。」(マタイ4:1~3)
 本日の聖書の箇所4章1節に「悪魔」という言葉が出てきます。漫画などに出てくる悪魔には、二本の角と牙(きば)がはえ、しっぽも生え(はえ)ており「いかにも怖ろしい顔」をして登場しています。しかし、悪魔はいかにも悪魔でございますと言うように登場するわけではありません。ある時は、優しいお爺さんであったり、またある時は、美しい女性であったり、変幻自在に姿を変えてあらわれるのです。本日の荒れ野の誘惑に登場する悪魔は、イエスさまが空腹になった時を見払って賢い助言者としてイエスさまに近づいてきました。悪魔は、私たちの弱さや心のすきをついて誘惑してくるのです。また、悪魔は、悪霊として私たちの心の中に忍び込み支配しようとするのです。要するに、私たちをあの手この手を使って「神さまから引き離そう」とする力と言ってもよいと思います。聖書は、その人格的な力を悪魔と呼んでいるのです。悪魔は、4章1節で「悪魔」と記され、3節では「誘惑する者」、10節では「サタン」と言い換えられています。悪魔には、いろいろな呼び方がありますが要するに、悪魔は今日も悪霊となって私たちを神さまから引き離すため誘惑してくるのです。ちょうど、目には、見えませんが「父・子・御霊なる三位一体の」神さまは、聖霊となられ今日もこの世でお働きになられているのと同じです。
 さて、本日の聖書には、イエスさまは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後、「“霊”に導かれて悪魔の誘惑を受けるため荒れ野に行かれた。」とあります。聖霊が、み子を悪魔に誘惑させるとは、一体全体どういう意味があるというのでしょうか。次のような二つの意味があるのだと思います。
 まず第1に“霊”が洗礼を受けられたイエスさまを荒れ野に導かれたということは、神さまのご意思が働いているということです。即ち、ヘブル語の「誘惑」には、「試みる」という意味があります。イエスさまが受けられた誘惑は、神さまが悪魔(サタン)を通して与えられた試練と理解することができます。
 第2に、私たちは、洗礼を受け神の子とされた後の人生でも、イエスさまがそうであったように誘惑や試練を受けると言うことを意味しています。
 そこで、今朝は、神の子であるイエスさまが誘惑(試練)に対してどのように対応されたかを第一のパンの誘惑(4:2~4)から学びたいと思います。第2、第3の誘惑につては、後日の機会に譲りたいと思います。
 さて、イエスさまは、40日間断食をして空腹になられた時、悪魔に「神の子なら、この石がパンになるように命じたらどうだ。」(4:3)と誘惑されました。口語訳聖書では、この箇所を次のように訳しています。「試みる者が来て言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。』」と。私は、誘惑の場面ですから口語訳のほうが適切な訳になっていると思います。前者ですと、命令口調で身構えてしまいますが、後者ですと空腹の絶頂にあるイエスさまに同情的な素振りで、しかも神の子と持ち上げ、お腹がすいて死にそうなのだから少しぐらい神の子の力を自分のために使っても神さまはお叱りになりませんよといざなっているようで、誘惑者の本望がよく訳に出ていると思うからです。とにかく、悪魔は、神さまに聞き従う者を、誘惑して神さまから引き離し、自分(悪魔)に聞き従い滅びに至る道へといざなう存在であるのす。
それでは神の子であるイエスさまは、このパンを石に変える誘惑に対してどのようにお答えになられ、このパンの誘惑を退けられたのでしょうか。
 イエスさまは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答えられました。これは、旧約聖書の申命記8章3節の引用です。申命記8章をご覧ください。申命記の8章2節には、「あなたの神、主が導かれたこの四〇年の荒れ野の旅を思い出しなさい。」とあります。イスラエルの人々は、モーセを通してエジプトから導き出されたのち、放浪の旅をしなければなりませんでした。しかし、「主はあなたがたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた」(8:3a)とあるように神さまはただイスラエルの人々を困らされたのではありません。人を飢えたまま放っておかれませんでした。毎日、それも毎朝毎晩「マナ」と「ウズラ」を天から降らせ、彼らを直接養われました。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたがたに知らせるためであった」(8:3b)。つまり、神さまは「パン」や「ウズラ」を与えながら、そのことを通して彼らを本当に養い導かれるのは誰かと言うことを教えようとなさったのです。
 「この四〇年の間、あなたがたのまとう着物は古びず、足が腫れることもなかった」(8:4)。これは私(神さま)の恵みは充分であったということです。だから「あなたがたは神の言葉によって生きるのだ」と言われるのです。神の言葉を聞きつつ、神に生かされていることを覚えなさいと言うことです。
 イエスさまの言われる「神の言葉で生きる」と言うことは、すべてのもの、食べ物も着る物も、住まいも、家族も家族を養うための仕事も、そしてその仕事をするための健康もそのほか私たちが生きていくのに必要なすべて、みんな神さまからいただいたものとして、感謝をもって生きるということです。
 イエスさまの荒れ野の誘惑の出来事は、ちょうど神さまが遣わされたモーセによってイスラエルの民が、奴隷の地エジプトから解放され、カナンの地に導き入れられるまでの荒れ野での四〇年間を指し示しているのです。つまり、神さまは、私たちにメシアであるイエスさまを遣わして、この世のサタンの支配から私たちを解放し、天国に帰るときまで私たちと共に歩み、私たちに必要なものと様々な誘惑や試練に打ち勝つ力を与え、守り導いて下さるということを指し示しているように思います。
 私たちは、この世にあって神さまが備えて下さらなければ、パンを手にすることさえもできないのです。神さまがお許しにならなければ一日も生きることができないのです。こう申し上げますと「エ~」と思うかもしれませんが、実はそうなのです。神さまなど無関係に、自分の力で生きていると思う時、私たちは知らず知らずのうちに、傲慢になっていて私たちを神さまから引き離そうとする悪魔の計画に陥ってしまっていることを覚えたいものです。そして、神さまの言葉は、命の糧でもあるのです。つまり、神さまに立ち返っていくこと、つまり、パンと永遠の命を約束する神さまの言葉によって生きることを神さまは望んでいるということを忘れないでいなさいということを荒れ野のパンの誘惑は伝えているのです。日々、どう生きていったらよいか神さまに立ち返り、神さまのみ声を聞きつつ、また、すべてのものを備えて下さる神さまに祈り求め、且つ感謝をささげつつ歩んでまいりしょう。

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