「神の国の到来」マタイによる福音書12章22~32節

受難節第2主日礼拝2022年3月13日
聖書:マタイによる福音書12章22節~32節
説教:「神の国の到来」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-57

 今朝の聖書の箇所には、安息日論争の後の出来事で、ベルゼブル論争と呼ばれる出来事が記されています。
「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった」(マタイ12:22)
 この12章22節に記されているようにイエスさまが三重苦の人をお癒しになられた出来事がことの発端となりベルゼブル論争が起こりました。
イエスさまは、目も見えず、口も利けず、おそらく耳も聞こえなかった人を目が見え、話すことができ、聞こえるようにされました。このことを目撃した「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った」(12:23)。群衆は、すなおに反応し、この人には、神さまの霊の力が働いている。この人こそ預言者たちの預言し、自分たちイスラエルの民が待ち望んでいたダビデの子、メシアだと思ったのです。
 ところがそうは思わない人たちもいました。「しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った」(12:24)。ファリサイ派の人々はイエスさまのことをメシア・救い主であると思うどころか、ベルゼブル、つまり悪魔の頭(親分)の力を借り悪霊を追い出しているのだと言いました。彼らはイエスさまを神さまが遣わされたメシア・救世主と信じようとはしなかったのです。イエスさまが悪霊を追い出し、人々の病気をいやし、様々な奇跡を起こす原動力は、ベルゼブルの力を受け魔術あるいは呪術(じゅじゅつ)であって、神の霊ではなく、悪霊の力によると言ったのです。そこには、イエスさまの業を魔術、呪術とすることで、モーセ五書の申命記の18章10節~12節に魔術や呪術などに対する厳罰の規定が記されており、その規定に当てはめて、イエスさまを陥れようとする陰謀がありました。
 マタイ12:24からファリサイ派の人々も、イエスさまのなさる業は、人間を越えた力が働いていることを認めていたことが分かります。
 イエスさまの存在は、人を二分する働きがあります。イエスさまをメシア・救い主として受け入れるか、イエスさまがメシアであることを拒否するかです。
 イエスさまを拒否する人は、ファリサイ派が象徴するように、この世で何かの権威をもっている人で、その自分の持っている権威を越える人が登場すると、それを拒否しようとする傾向があるように思います。人は、自分の権威を脅かそうとするものが現れると、そうしたものを抹殺しようとするのです。自分に自信がない人ほど、その傾向は強いように思います。
 その代表は、ヘロデ大王です(マタイ2:2、3)。しかし、本当に偉いと申しますか、神さまに対して謙虚な人は、自分より優れた人が登場しても拒否しません。バプテスマのヨハネがそうですし(ヨハネ1:29~34)、当時の宗教的指導者の第一人者であったガマリエルは、パウロの律法の先生で(使徒22:3)、この人は、本物の権威とは、その人の内側からあふれ出るものであることを知っていました(使徒5:38、39)。
 さて、イエスさまは、「悪霊の力で悪霊を追い出している」というファリサイ派の人々の非難に対して、二つの論法で答えられました。一つは、「どんな国でも争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」(マタイ12:25,26)。これは、悪霊の世界といえども、内輪もめをすれば、内部分裂するということです。もう一つは、「わたしがベルゼブル(悪霊の頭)の力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁くものとなる」
(マタイ12:27)。イエスさまは、ファリサイ派の人たちも悪霊追放の業をしていることを取り上げ、それを悪霊の仕業かと皮肉られたのです。この二つのイエスさまの答えを聞いたイエスさまをののしった者たちは何も言い返すことがきませんでした。
 イエスさまは、なおも続けます。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(12:28)
 このみ言葉こそ本日の聖書が伝える真のメッセージです。つまり、ここまでのベルゼブル論争は、このみ言葉をひきだすためのものだったのです。
「光は暗闇の中で輝いている。・・・その光は、まことの光で、世にいるすべての人を照らすのである」(ヨハネ1:5,9)。このヨハネ福音書のみ言葉は、まことの光、この世を照らす光がこの世に到来したことを指し示しています。         
 私たちの世界は、イエスさまの時代もそうでしたが、現在も闇に閉ざされていて、悪霊が支配しているようにおもわれます。しかし、聖書の主のご降誕、即ちクリスマスの出来事は、その闇の中に光がともされたことを指し示しています。
 神の国とは、神さまのご支配が行き届いているところです。2000年前この世に主が降誕し、今は聖霊となられ働かれているのですから、この世において既に神のご支配がはじまっているのです。その意味で、神の国は到来しているのです。
 悪霊は、私たちより強く私たちは自分でそれに打ち勝つ力を持っていません。特に私たちは死の前では無力です。しかし、イエスさまは、悪霊の上に立たれ、死さえも打ち砕く力をもっておられます。悪霊の頭を縛り上げ、私たちを解放してくださるのです(マタイ12:29)。イエス・キリストは、私たち人間を死と死の棘(とげ)である罪から解放するためにこの世に来られたのです。そして、十字架上で贖いの血を流され、その血によって私たちを贖い、死んで陰府(よみ)の世界に降り、三日目に死を打ち破り復活され、永遠の命の授与者となられたのです。その後天に昇られ神さまの右の座につかれました。父なる神さまの右の座とは、神さまのお力、即ち聖霊を指します。そして今では聖霊となられてこの世を導かれ、この世の人々を守り導いておられるのです。
 そのことを、説明しているのが、一見、理解しにくいイエスさまの次の言葉です。「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(マタイ12:32)。
 聖霊とは、今、この世で働いておられる神さまの霊のことです。復活され、今も生き、昔も生き、未来永劫(みらいえいごう)働いておられるイエスさまの霊のことです。ローマ8章26節に「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に言い表せないうめきをもって執り成してくださるからである。」とあるように、こうした聖霊の働き、神さまの働きを拒否することは、救いの道を自ら閉ざしてしまうことになるということです。
 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることはなく、死から命へと移っている。‥死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(ヨハネ5:24、25)。「天の父は、求める者に聖霊を与えて下さる」(ルカ11:13)。
 今、現在すでに聖霊と言う形で神の国は到来しており、神さまのご支配がすでにこの世において始まっているのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)。
 聖霊と言う形で神の国は到来し、神さまのご支配がすでにこの世において始まっているのですから、どんな時でも祈りつつ、また、とりなしの祈りをしつつ、共に御国に向かって歩んでまいりたいものです。              

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