降誕節第10主日礼拝2022年2月27日
聖書:マタイによる福音書8章23~27節
説教:「嵐に中で」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-57
人生は、航海によく例えられます。私たちは大海原を旅するのですから嵐に遭遇することもあるでしょう。ですから、私たちはそうした嵐に備えてできるだけ沈まない船で旅したいと願うのです。大きなしっかりとした船とは、安定した仕事、より高い地位、そして豊かな富を蓄えることが、揺るがない人生を歩むためには望ましいと考えます。こうして自分が築いた船にイエスさまがお乗りくだされば鬼に金棒と考えがちです。しかし、誤解しないようにしなければなりません。信仰をもって生きているということは、私たちが築いた船にイエスさまをお乗せするということではないのです。むしろ、その反対で、イエスさまが乗っておられる船に私たちが乗り込み旅をするということなのです。このことを本日の聖書の箇所の冒頭の記事は伝えています。「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」(マタイ8:23)。
イエスさまが乗りこまれた舟は小さな舟だったようです。本日の聖書の箇所8章24節に「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」と記されていますが、その嵐とは、ガリラヤ湖上で時々吹く突風のことで、その突風で沈みそうになるくらいですからそんなに大きな舟ではないことは確かです。
それでは、イエスさまの舟に乗り、イエスさまが共におられるということは、どういうことでしょうか。イエスさまの舟に乗れば嵐を避けることができるということではないのです。イエスさまの招きに従ってイエスさまの舟に乗り込んだ弟子たちは、嵐に遭った時「なんでこんなことになってしまったのか」と自問し、イエスさまについてこなければよかったと思ったかもしれません。どうやら、イエスさまに従っても嵐に遭うのです。
イエスさまご自身がそうでした。この世に降誕され、人となられたイエスさまは、神さまのみ旨に従って生きようとし、この世と違う生き方をされ、この世の嵐を受けられたのです。そして、イエスさまご自身その嵐の中で十字架につけられ死んで行かれたのです。ですから、イエスさまに従う者も嵐を受けるのです。人間は、人生の嵐を受ける存在なのです。この世に生を受けた時から苦しみを負う存在だからです。そうした苦しみや重荷を負いながら嵐渦巻くこの世を、私たちの本当の故郷(ふるさと)である天国に向かって生きていかなければならないのです。つまり、イエスさまの舟に乗り、イエスさまの弟子としてイエスさまと共に生きていくということは、嵐に遭わないということではなく、イエスさまが共にいてくださり、イエスさまが私たちの重荷、苦しみを共に負い嵐に立ち向かい嵐を乗り越えさせ、また潜(くぐ)り抜けさせてくださるということです。マタイ福音書10章28節~30節にイエスさまの招きの言葉があります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びになさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
さて、本日の聖書の箇所8章24節をご覧ください。「イエスは、弟子たちが嵐で慌(あわ)てふためいていた時、眠っておられた」と記されています。
イエスさまが眠っておられたと言いますとクリスマスの出来事を思い起こします。
ベツレヘムの馬小屋でお生まれになられた赤ちゃんイエスは、飼い葉桶(おけ)に寝かされスヤスヤと眠っておられました。ご自分が生まれたということでベツレヘム周辺の2歳以下の男児を殺せというヘロデ王の命令が下されていた嵐の中眠っておられたのです。
この時のイエスさまのことを宗教改革者のカルヴァンは、次のように解説しています。「人間としてのイエスは眠っておられるが、神としてのイエスは目覚めて活躍しておられる。即ち、イエスは、自分の責任を放棄していたのではなく、そこで父なる神への絶対的な信頼と、すでに神がお働きになられておられるということを、身をもって、眠るという姿で示されたのである」と。そうです。赤ちゃんイエスの眠っているお姿は、「ヤコブの家よ、イスラエルの残ったすべての者よ、生まれ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれたものよ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったがゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ46:3、4)と公言される父なる神さまに御子としてすべてを委(ゆだ)ねて生きる姿勢を示しているのです。
この世に生を受けた者の人生は、創造主であり父なる神さまの御手の中にあり、即ちイエスさまの舟に乗り人生の荒波を乗り越えて行くというご計画の中にあるのです。
この世界では大きな嵐が吹き荒れています。2000年前もそうでしたが、今もそうです。「イエスさま、起きて下さい。何とかしてください」、そう叫びたい思いに駆られます。嵐に遭遇した時の弟子たちのように、「主よ、助けて下さい。おぼれそうです。」(8:25)とついおろおろしてします。しかし、イエスさまは、不信仰な弟子たちを見捨てず、突き放さないで、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」とお叱りになり助けてくださいました。その時のように現在の私たちの叫びと祈りに最善をもって応え聞き届けてくださるのです。しかも、イエスさまはこの世のありとあらゆるものの主であるお方ですから、湖も風もお叱りになられ従わせることがおできになるのです(8:27)。ですからイエスさまを通して祈れば、コロナもしかりつけ終息してくださるのです。また、どのような大義があろうとも戦争を仕掛けている国をおしかりになられ終息させて下さると思うのです。どんな嵐に遭遇してもあきらめずに、祈り求めて主のお助けをいただきつつ、一つ一つの嵐を乗り越えていきたく思います。
コロナ禍のためになかなか教会に来られなくなられておられる方々。具体的には、遠方にお住いの方々、病床にある方々、また、自宅療養や施設に入っておられる方々。どうぞ、説教をユーチューブ配信で聞き、あるいは、週報に挟んである説教要旨やディボーショナルを読まれ信仰の糧にしていっていただければ幸いです。また、祈りや献金をもってこれからも教会をお支くださり、深谷教会という同じイエスさまの船に乗る神の家族として、神の家族の絆を霊的に深めていってくだされば幸いです。よろしくお願いいたします。