「美しく生きる3つの条件」 マタイによる福音書25:14~30

2022年1月30日深谷教会降誕節第6主日礼拝
聖書:マタイによる福音書25章14~30節
説教:「美しく生きる3つの条件」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-57

「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」(マタイ25章21節)

 20世紀を代表するユダヤ人の哲学者マルチィン・ブーバーは、「我と汝(イッヒ ウント ドゥ)」という本を世に出し、人格としての交わり、個としての大切さを世に広めました。そのブーバーが「この世に生まれてくる一人ひとりは、なにか新しいもの独自なものを持っている。彼は自分と同じ存在がこの世にないことを知らねばならない。もしあったとしたら、彼は存在する必要がないのだから、一人ひとりは彼にしか果たせない使命を果たすべくこの世に存在するのだ。」と言っています。
 これは、私たち一人ひとりに向けられたことばです。私という人間はこの世に一人しかいない。だから大事にしなければいけない。いい加減に生きてはいけないということです。また、人とくらべて自分は劣っている。自分は人より優れているというように比較することがあってはならないということです。これらのことは実は、キリスト教もユダヤ教も共通する旧約聖書の人間観なのです。人間は、神さまから神さまの命を分けていただいてこの世に遣わされてきているのです。その根拠は、創世記2章の7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息(ルアッハ)を吹き入れられた。」にあります。
 しかも本日の聖書の箇所のイエスさまのタラントンのたとえにあるように、誰もが皆違った使命を固有のタラントン(能力・賜物)をいただいてこの世に遣わされてきているのです。
 神さまから預かったタラントンが5タラントン、2タラントン、1タラントンとありますから、私たち特に日本人は、数字に惑わされてしまいますが、ABCのタラントンつまり、Aタラントン、Bタラントン、Cタラントンと理解するとより豊かにイエスさまのたとえの意味が理解できるのではないでしょうか。Aのタラントン能力や賜物を持っている人、Bの能力や賜物を持っている人、Cの能力や賜物を持っている人と。なぜならば、私たちの神さまは、私たちが比較して生きることを望んでおられないからです。
 「みんな違ってそれでいい」といった方(相田光男さん)がおられましたが、まさに、イエスさまは違いを現す表現で使われたのです。数学が得意 な人、語学が得意な人、音楽や絵をかくことが得意な人、運動能力のすぐれた人、料理の得意な人、人を笑わせるのが上手な人などなどみんな違ったタラントンをいただいて、この世に遣わされてきているのです。
 このタラントンのたとえで見逃してはいけない重要な点があります。それは、5タラントンの人が5タラントン、2タラントンの人が2タラントンを儲けて主人から褒められたという点です。この二人は、褒められただけでなく同じ祝福を受けています。ということは、神さまは、私たちに限界を設けて下さっているのであり、その人が、その人のタラントン能力や賜物を十分果たすことを願われておられるということです。「使命」とは、「命を使う」と書きますが、神さまは、この世で私たちがそれぞれ与えられた使命、寿命を精一杯生きることを望んでおられるのです。また、神さまは2タラントンの人が5タラントンを儲けることを望んでいません。そしてどれだけ儲けたか、どれだけの功績をあげたかでもありません。一生懸命生き、働いた結果すべてを失ってしまったとしても神さまは喜んで下さるのです。どうしてそんなことが言えるかと申しますと、1タラントンの才能・能力をいただいた人が、その才能・能力を失わないように、盗まれないように土の中に埋めたことに対して、主人、つまり神さまはお怒りになられました。すべての人が例外なくその人固有の使命、賜物が与えられているのです。初めから、生まれた時からもっていない人はいないのです。たとえ寝たきりの人にも生きる使命、意味があるのです。私たちには、どのような状態、状況におちいっても、その人その人の命を支え、命を使いきるまで支え合って生きていくことが求められているのです。
 さて、私たちは自分の授かった命を精一杯生きタラントンを活かして生きていくことと命やタラントンを土に埋めることは、神さまの御心ではないことを学びました。それでは、命とタラントンをどう活かして生きていったらよいのでしょうか。
 真山美保さんの小説「泥かぶら」という本の主人公の女の子は、顔の醜い子どもでした。というよりも、土をかぶされ石を投げられ醜くされていた子どもです。その日も村の人からあざけられ、子どもたちから石を投げつけられ、唾(つば)をはきかけられていました。それを口惜しがり怒る少女の心は益々すさみ、顔は醜くなる一方でした。その村に一人の旅人が通りかかりました。竹竿(たけざお)を振り回して怒り狂っていた泥かぶらに向かって次の3つのことを守れば、村一番の美しい人になれると教え、自分は旅を続けて行ってしまいました。
 その3つのこととは、
1つ、いつもにっこりと笑うこと。
2つ、自分の醜さ(弱さ)を恥じないこと。
3つ、人の身になって思うことでした。
 少女の心は動揺しましたが。しかし美しくなりたい一心でその日から血のにじむような努力を始めました。何度もやめようとしましたが、やり直して始める泥かぶらの顔からはいつしか憎しみが去り、その心はおだやかになっていきました。
 明るく気だての良くなった少女は、村の人気者となり、子守やお使いを頼まれるまでになったのです。そんなある日、同じ年ごろの娘さんが人買いに買われて行くのを知った泥かぶらは、喜んで身代わりとなり連れられてゆきました。道々楽しそうに村の様子を話し自分がかわいがった村の赤子たちのことを話す少女の心は、極悪非道な人買いの心を動かしはじめました。人買いは、茶店で休憩を取った時、今までの非業を悔い、小用にいかせた泥かぶらに置手紙を残して立ち去ったのです。その手紙には、「ありがとう。ほとけのように美しい子よ」と書いてありました。その手紙を手にした泥かぶらは、かつて、旅の老人が約束した言葉を思い出したのでした。

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