深谷教会降誕節第5主日礼拝2022年1月23日
司会:渡辺清美姉
聖書:ルカによる福音書18章9~14節
説教:「パリサイ人と取税人の祈り」
保母光彦牧師
讃美歌:21-280、278
奏楽:杉田裕恵姉
★暗誦聖句
・1月24日(月):ルカによる福音書18章14節●
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする 者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
・1月25日(火):ルカによる福音書5章16節●
「だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」
・1月26日(水):ルカによる福音書18章9節●
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはこの譬をお話になった。
・1月27日(木):ルカによる福音書18章13節●
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人の私をおゆるしください』と。
・1月28日(金):ヨハネの第一の手紙1章3~4節●
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
・1月29日(土):ヨハネの第一の手紙1章5~10節●
5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして、御子の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
★説教要約
*目標:神の御前に立っていることを意識して祈る。
*主題:神は罪を自覚し、あわれみを求める者を義と認めてくださる。
*暗誦聖句:「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。
(ルカ18:14●)
イエスは神とのまじわりの祈りを大切にしておられました(ルカ5:16●「だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」)そのイエスが、失望しないで祈られるとともに、祈りの姿勢について、たとえを通して教えてくださいました。
1.祈りの姿勢(11,13節)
当時、パリサイ人たちは、祈りの定位置をもっていました。それは、神殿の正面の聖所にいちばん近い所でした。立って祈るのは、主の民の姿勢です。(マタイ6:5●「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いをうけている。」)。 そして、特にこのパリサイ人の立ち方は、「しゃんと立った姿勢をとり続けた」と表現されています。胸を張ったようなよい姿勢で、威風堂々と祈っていました。律法を守っているという自負の思いがあふれていたことでしょう。
一方の取税人は、聖所からは遠く離れ、神殿の出入り口に近い所にひっそりとたたずんで、顔を上げることもできずに祈りました。この祈りの姿勢において、結論ははっきりしています(14節●))〔言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、〔ファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。〕
神がこれが信仰だとごらんになって義と認めたのは、取税人です。そして興味深いことに、ここでは、具体的な願いが聞かれたということよりも、祈った者が義と認められることによって、祈りの成果がはかられています。義と認められるということは、神と交わりをもって帰ったということを意味します。祈りは神との交わりなんですから。
では、なぜ、取税人が義と認められたのでしょうか。そのポイントは、自分を低くしているかどうかにかかっているかどうかということです。自分を低くする謙遜というのは、自己卑下して遠慮深く生きることではないのです。人と比較して生じる態度でもありません。問われているのは、神の前に立っているかどうかということです。
2.自分を低くする祈り(12~13節)
二人の祈りを確認してみましょう。
パリサイ人は、自慢するかのように聞こえよがしに祈ったのではありません。「心の中で」=自分自身に向かって、です。彼は聖所つまり神に近寄り、立って顔を上げ、神を仰いで祈っているようでありながら、神の前にいませんでした。祈っていると言いながら、神に話しているのではなくて、自分に言い聞かせています。ですから、彼の祈りは全部自分の主張です。〔落語:小言幸兵衛(こごとこうべい)で有名です〕。自分の主観で、すべて否定です。彼は聖所つまり神に近寄り、立って顔を上げ、神を仰いで祈っているようでありながら、神の前に立っていませんでした。「コゴトコウベイ」と言います。聖書では神の前に立つとどうなるかというと、13節●の取税人の姿、「ところが、徴税人は遠くに立って目を天に上げるようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』胸を打ちたたくのは、罪を認めて悔い改めることを表しています。また自分のことを自分に言いきかせていますのがパリサイ人です。感謝も「神よ」と呼びかけていても、自分のしたことに対しての感謝です。断食もした、十分の一の献金もした、施しもした、神の恵みを数え上げることなく自分にとってよかったと満足していることの列挙です。私たちの祈りはどうでしょうか。私があれもやった、これもやった、私はこう思う。まるで自分に言い聞かせるような祈り、時には人に聞かせるような祈りをささげていないでしょうか。さらに、神の前に立っていないと、自分が中心で、人と比較することになります(9節●)。自分の基準で他の人をさばくことになります。この理由で、人と比較しての自己卑下も自分を低くることにはなりません。自分の中に、他の人と比較して優劣を考えるようなことがあれば、立っている位置が間違っています。神の前に立っていません。
では神の前に立つとどうなるか、というのが取税人の姿です(13節●)。→胸を打ちたたくのは、罪を認めて悔い改めることを表しています自分のことを「罪人たちの一人」と言ったのではありません。「こんな罪人の私」と告白しています。取税人は神の前に立っていました。
神の光に照らされたら、自分はとても神の前に立てる存在ではないことがわかります。これは神に近づけば近づくほどわかることです。今まで罪と自覚できなかったこともよく見えるようになり、それを取り除いてください、と祈るようになります(Ⅰヨハネ1・3~10●)。ますますきよめられることを願うから、主の前に立ち続けます。神が赦し、きよめてくださること知っているから、神の前に自分の姿を認めることができます。そこから生まれるのは自己卑下ではなく、神のあわれみを求める告白です。これが自分を低くすることであり、義と認められる祈りということです。
◎自分の祈りということです。自分の祈りの姿勢を振り返りましょう。イエス・キリストの十字架のゆえに、 私を義と認めてくださる神のあわれみを味わい、神を仰いで信仰告白の祈りの交わりをしていきたい と願います。
【聖書から】ルカによる福音書18章9~14節、ヨハネの第一の手紙1章1~4節(新共同訳)
ルカ18:9~14節
「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ
9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸をうちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんで下さい。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ヨハネ第一の手紙1章1~4節
命の言(ことば)
1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――2この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。——3わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちに交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。4わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。