「人を生かす言葉」 テサロニケへの第二の手紙2:13~17

深谷教会降誕節第4主日礼拝2022年1月16日
司会:西岡義治兄
聖書:テサロニケへの第二の手紙2章13~17節
説教:「人を生かす言葉」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-402、405
奏楽:平石智子姉

 「わたしたちの主イエス・キリストご自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。」(Ⅱテサロニケ2章16節、17節)
 私たちは聖霊の力によって救われ、神の子として生まれかわりました。また、救われる者の初穂として選ばれ、立てられています。
旧約聖書の感謝のささげものである燔祭の規定には、初穂をささげなければならないとあります。なぜでしょうか。初穂には、2つの意味があり、一つは初穂、もっともよいものを神さまの恵みに対してお献げするという意味があり、もう一つは初穂を聖別する、初穂を祝福するということはその畑すべてが聖別され、祝福を受けるという意味があります。その意味から私たちは聖霊によってイエスの十字架の死と復活の恵みによって救われ、神の子、神の初穂としてこの世に立てられているのです。つまり、みなさんは、みなさんのご家族の初穂であり、みなさんによってご家族一人一人は聖別され、神の祝福を受けているのです。ですから私たちは自分の家族のことを覚えて祈るように導かれているのです。そんな神の初穂の集まりが主の体なる教会、神の家族の共同体なのです。
 教会は、神の霊と命によって、キリストの血と神の愛アガペーによって結び合された集い、運命共同体です。また、礼拝によって父なる神に結びつき、兄弟姉妹の交わりによって結び合され、キリストの愛と霊の糧である御言葉によって養われる群れです。内なる人である私たちの霊、魂は、いのちの御言葉とキリストの愛と兄弟姉妹との霊的交わりによって支えられ成長していきます。そして人を支え包み込むことのできる成熟した人へと成長していくのです。
 パウロが本日の聖句で言っている「どうかあなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように」(2:17)との祈りは、2章16節が前提にあるのです。2章16節がパウロの祈りの根拠です。「わたしたちの主イエスご自身、並びにわたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによってくださるわたしたちの父なる神」に祈っているのです。パウロも実は、神によって救われた初穂として私たちのためにとりなし、神に祈っているのです。このように私たちは、自分と自分の家族のためだけでなく、神の家族である兄弟姉妹のことを覚え祈るように導かれています。ひいては、世の人々のため祈るようにと導かれています。深谷教会の伝統の一つは、祈る教会です。菊地猶之助牧師の時代のことですが、すでに天に召された佐久間久美子姉の母上松沢みつ姉からお聞きしたお証を紹介いたします。みつさんが若かりし頃、深谷教会は早朝、菊地猶之助牧師を先頭に、まだ暗い夜が明ける前に仙元山(せんげんやま)まで(自転車などで)行き教会の皆さんが一つ心になって大声で祈られたそうです。当時の仙元山の近辺には人家がなかったそうです。祈り合うことによって主にある交わりは強められお互いの霊性は高められますし、家族や神の家族である兄弟姉妹のことを祈るだけでなく祝福の基・初穂として世の人々や世界の平和のためとりなしの祈りをすることによって神さまの使命を果たしていたとのことです。みつさんは、「祈り合うことによって霊の息と霊の息とが呼応して生き生きとした教会となって行きました」と証(あかし)をしてくださいました。
 礼拝が体全体(からだぜんたい)に血液を送り出す主の体である教会の心臓部であるならば、祈りは体に酸素・聖霊を取り込む肺になるわけです。私たちの体が空気を肺にたくさん吸収し肺が空気を心臓に送り込みますと血液が体中に循環してその人を元気に生かしてくれるように、礼拝が聖霊に満たされ喜びに満ちたものとなるためには、肺の役目になる祈ることが、また祈り合う場が必然的に必要となるのではないでしょうか。
 私たちは祝福の初穂、基として礼拝と祈りを通して2章17節「神さまに励まし、強めていただいて、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者」(2:17)にしていただくことによって主の御用(使命)をはたしていくことができるわけですが、2章17節の「神さまに励まし、強めていただいて、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように」と祈ることによってどのように変えられ、成長させていただけるのかを見てまいりましょう。
 「善い働き」と「善い言葉」の「善い」は、新共同訳聖書では、善悪の善を使い「善い」と訳されています。パウロの真意は、道徳的・倫理的な良い業ではなく「善なることとは神さまに喜んでもらえる行為、神さまのみ旨を聞いて行うことであり」、「善い言葉とは道徳的・倫理的な良い言葉ではなく、また、良質なことば上品な言葉をつかうことでも丁寧語を話しなさいということでもなく、愛ある言葉・人を生かす言葉です」。そうです。言葉は、「ことだま」と大和言葉で言うように、人の心・魂の中から出てくるものです。そのようなわけで、「言葉も行動もその人の品性や知性、思慮深さなどその人の『ペルソナつまり魂の中から・心の奥底からにじみ出てくるものです』」。ギリシア語の「ペルソナ」という言語は、英語の「パーソン(人格・人間性)」を意味することばの語源です。単的に言いますとその人のうちに神さまの愛といのちの御言葉が満ち溢れているならばその人の語る言葉は、相手に伝わり、相手を癒し、励まし、力づけることができるのです。つまり、イエスさまを心の内にお迎えするならばその人の行動や語る言葉は、イエスさまのように変えられていくのではないでしょうか。
 私が尊敬してやまない人物のおひとりに河野進牧師がおられます。河野先生は、医師であった小川正子さんの「小島の春」という記録小説で有名になった瀬戸内海に浮かぶ長島にあるライ園(ハンセン氏病の施設)「長島愛生園」の中に教会を建てられハンセン氏病の方々に50年間仕えられた方です。ほかにハンセン氏病関係ではマザーテレサの働きの一つであるインドのハンセン氏病(ライ)患者の救援のためのプロジェクト「おにぎり運動」を立ち上げました。そのほか障碍者の働く仕事場づくりとして授産施設を数か所開設されました。そればかりか、敗戦後の高度成長期で親が共働きをする家が増えたことにより子供たちを預かるいくつもの保育園を開設し運営されるなど神さまの初穂として神さまからいただいた賜物をフルに活用され、その生涯を主におささげされた方です。その先生のパーソナリティを形成したのは、母親から受け継いだ信仰でした。河野進牧師は、今でいうヤングケアラーでした。病身の母親を幼いころからケアーし、母親の薬を買うために新聞配達や牛乳配達などをしながら成長されました。先生は、詩集を多く出版されておられますので先生の詩集から先生の聖句歴を見てみたいと思います。まず、「母」という詩集から先生とお母さんとの関係を知ることができます。その詩集に「善いように」という詩があります。
「善いように」
“優しかったお母さん 
つぎつぎ詩集にのせられてはずかしいって
天国でおろおろしていなさるでしょう 
家が貧しく 病身でしたから 大切にしてあげたかっただけ  
もし金持ちで お元気でしたら ぼくはきっと放蕩息子になっていたでしょう 
神さまはすべてを善くお導きくださいました“

「母」という題名の詩集からもう一つ「苦労」という詩を読みます。
「苦労」
“ぼくのお母さんがこどものとき お母さんがなくなってずいぶん苦労したそうだ
 ぼくが大きくなってそっと聞いた 心配させたくない心遣いであっただろう
 とても気がついてやさしかった ひどく苦労したからだ
 すなおにくろうすればきっと善い人になれる“
 
河野先生は、病身なのに自分のことを後にして子供たち第一にして祈り世話をしてくれたお母さまに育てられました。そうした母親に受けた善い影響のことを先生は、「摂理」という詩で次のように言っておられます。
「摂理」
“わたしは長い生涯 病む人と関わりつづけました
 赤ん坊の時から 病苦の母のそばにいましたから
 自然にこころやすくなったのでしょう 
 神さまは次々病者に出会わせて下さいました
 色盲のため志す医者になれず  田舎牧師にされた摂理を感謝しています“

この詩から、先生が若い時、病身の母親の病気を治す医者になる志をもっておられたことが分かります。このように先生の人格形成は、お母さまの信仰からにじみ出た子供たちへの愛情と祈りであったのです。どんな辛いことがあっても病身であっても神さまを見上げて生きる母親の姿を見て育たれた先生の心の中に、万事を益としてくださる(ローマ8:28)まことの父なる神さまを信じ従う信仰が培われていったのだと思います。まさに河野進先生は、マタイ25章40節のイエスさまのみことば「この最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである」とのみ言葉を生涯かけて実践されたお方です。つまり、先生は、いつも小さくされた人々、病む人々や、障害を持つ人々、差別されている人々、そして子供たちと寄り添い生きられたのです。 その先生の詩集の中で最も私が好きな詩を紹介して説教を終わります。「一言の重さ」という詩です。
 
 一言の重さ
“ふとした一言が大きな喜びに   ふとした一言が深い悲しみに 
ふとした一言がいやしがたい傷に ふとした一言が天使の慰めに
ふとした一言が希望の太陽に   一言の重さを覚えさせてください 
一言だけに仕えさせてください  神さま 一言だけに仕えさせてください“

 最後の「神さま 一言だけに仕えさせてください」という重い表現でこの詩は結ばれています。言葉は、天使の慰めにもなりますし、反対に人を傷つけてしまうこともあるのです。言葉は、人を生かしもし、殺しもしてしまいますから、言葉の使い方に心を砕きたく思います。今、コロナ禍にあって多くの人々が孤独や不安、そして、生活苦などを抱えています。また、感染して苦しんでいるかたがたがいます。そうした方々にどのように声をかけ働きかけていったらよいか祈り求めたく思います。そうした人々に慰めと希望を告げることができる、人を生かす言葉を語る者にしてくださいと。また、寄り添うことができる者にしてくださいと。
 
祈りましょう。
わたしたちの父である神さま
どうか、わたしたちの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるよう心よりお祈りいたします。どうぞそのために主が私たちの心に宿ってくださり、愛ある・人を生かす言葉を語り、また、とりなしの祈りをする者としてくださいますように。また、誠実に人に接し神さま、あなたに喜ばれる善き働きをする者としてください。
新型コロナウイルスを一日も早く収束してくださり、私たちを、人類を新型コロナウイルスから解放してください。       
イエスさまのみ名によって祈ります。 アーメン

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