2022年1月9日深谷教会降誕節第3主日礼拝
司会:野田治三郎兄
聖書:ルカによる福音書10:25~37
説教題:「イエスは隣人になるように教えられた」
保母光彦牧師
讃美歌:21-276、280
奏楽:小野千恵子姉
★暗誦聖句
・1月10日(月):ルカによる福音書10章27節●
彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
・1月11日(火):ルカによる福音書10章36節●
「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
・1月12日(水):ルカによる福音書10章32節●
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
・1月13日(木):ルカによる福音書10章33節●
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
・1月14日(金):ルカによる福音書10章34節●
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
・1月15日(土):ルカによる福音書10章35節●
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
★説教要約
*目標:隣人を愛するとは、自分にとってどういうことか考える。
*主題:イエスは、隣人となるよう教えられた。
*暗誦聖句:「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」 (ルカ10:27●)。
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」。
律法の“かなめ”となっている神のみこころです。愛することには必ず対象が存在します。ですから、この律法の専門家のように考えます。「私の愛すべき隣人は誰だろう?」
〔答〕
1.愛することは隣人になること(36節)
「あの人? この人?」と問うとき、そこには選択の余地があるという前提があるのです。イエスは教えてくださいました。「隣人は、なるもの」だと。私が探して選ぶのではなく、神が私に出会わせてくださっている一人一人と隣人になる、それが愛することだということを覚えたいと思います。神の主権を認め、自分から近づき隣人になる。それはイエスがしてくださったことでした。神の御子であるイエスが、人となって私たちのところに来てくださいました。隣人になってくださいました。
2.サマリア人のしたこと (33~35節)
では、私たちはどのようにして隣人となることができるのでしょうか。
たとえの状況を確認しておきます。エルサレムからエリコへの道は20キロ強でしたが、標高差が千メートルある下り坂でした。岩がゴツゴツと飛び出て、幾つもある急カーブは盗賊の絶好の狩り場になっていました。実際、強盗に出会うことはよくあったことでしょう。ある旅人が強盗に襲われ、身ぐるみ剥がされて倒れていたところに通りかかった三人の行動が記されています。そして、隣人になったのはサマリア人でした。
①(33節)を「見る」、そして・・・
祭司、レビ人、サマリア人、三者とも強盗に襲われた人を見ました。:まず、見なければ始まりません。私たちは、自分の周りを見ているでしょうか。自分のことでいっぱいで、周りの人の疲れ、痛み、喜びに気がつかないことはないでしょうか。愛すことの対義語は無関心と言われます。愛することは、まず見ること、知ることです。「しっかりと認識した」という同じことばが、三人ともに使 われています。同じように見たのにサマリア人が違っていたのは、「かわいそうに思った」こと。祭司とレビ人は、その気持ちがありつつも立場を考えたのかもしれません。「この人がもし死んでいたら、死体の汚れに触れて自分の努めを全うできなくなる」と。この判断がその後の行動を分けます。「かわいそうに思う」=「あわれみ」の心は、ただ感情がかき立てられたというだけでなく、イエスがもっておられた心です(マタイ9:36)。=〔また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れました〕。目で見ている状況に反応するだけでなく、その人の結末を考えて、内臓がえぐられるほどに痛むことです。
②(34節)「できることをする」
サマリア人は自分から近づきました。愛することは、思っているだけでなく、行動することです。ヨハネの第一の手紙3章16~18節「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」サマリア人は旅に持参していたオリーブ油、ぶどう酒、そしておそらく自分の下着を用い割いて、襲われた人を介抱し、一緒にいました。
愛することは、具体的に、自分が今持っているものを分かち合うことです。できないことを数え上げるのではなく、持っているものをどう用いるか、できることを考えることです。私たちは神から沢山のものを与えられています、この体も、持ち物も、時間も、もちろん、自分の持てるものには限界もあります。そうなったときに必要なこと、それが次のことです。
③(35節)「一人で全て」ではなく、共に
サマリア人には、時の制限がありました。翌朝には自分の用を果たすために出かけていきます。しかし、強盗に襲われた人を見放したわけではありません。宿屋の主人にゆだねました。2デナリは、二日分くらいの賃金です。自分が旅から帰るか、けが人が回復するのに必要な時間や経費を計算してのことでしょう。「自分がしなければ」と抱え込むだけが愛することではありません。自分に与えられているもの、自分のすることが明確になっていると、自分にできる精いっぱいを行い、さらに適切にゆだねることができます。
隣人にはすでに神が出会わせてくださっています。これからも出会います。愛することで隣人になります。イエスは、同じようにするようにとおっしゃいました。神が私の周りに置かれた人々のことをよく見て、隣人になりましょう。
【聖書から】 ルカによる福音書10章25~37節 (新共同訳)
善いサマリア人
25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣り人を自分のように愛しなさい』とあります」。28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29しかし、彼は自分を正当化しようとして、 「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を憐れに思い、34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、宿屋に連れて行って介抱した。35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱して下さい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36さて、あなたはこの中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」