2021年12月26日深谷教会降誕節第1主日礼拝
聖書:ルカによる福音書1章78~79節、2章1~12節
説教題:「クリスマスー闇の中の光」
法亢聖親牧師
讃美歌:21‐261、258
「これは我らの神の憐みの心による。この憐みによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(ルカ1:78、79)
クリスマスの出来事は、「夜」の出来事です。世界に「夜」があり、私たち自身にも「夜」があります。それも眠られぬ夜です。しかし、その夜の真っただ中に神さまの恵みの「光」が訪れました、それがクリスマスです。
ルカ福音書1章78節に「神の憐みによって私たちに「光」が訪れ、この「光」が「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし平和に導く」と言われています。このことこそ、クリスマスのメッセージです。「暗闇と死の陰に座している者たち」とは、最初のクリスマスの時の人々だけの事でしょうか。そうではありません。今の時代を生きる人々、我々のことでもあります。どの時代も、どの国にも「暗闇と死の陰」はあるのです。特に、この2年間世界は新型コロナウイルス禍の中にあります。また、2030年問題(地球温暖化問題)もあります。人類は急速に進歩を遂げている一方、その実大変なことを引き起こしてきたのです。この世の光(繁栄)には、影(陰)が付きまとうのです。そのほか、さまざまな人類が解決してゆかなければならない問題が沢山あります。
それでは、私たちの父なる神さまは、「暗闇と死の陰」に生きている私たちをどのように救おうとされておられるかを聖書に聞いてまいりましょう。聖書では「暗闇と死の陰」それは、光に照らされていない状態、神さまの言葉から離れている状態のことだと言っています。み言葉に生きていない、み言葉が浸透していない生活です。そして、その「闇」は隣の人を見えなくさせ、人間同士をバラバラにしてしまいます。そこでは、神さまの言葉や愛の力ではない、別の力が支配します。人に対する妬みや恨み、差別や優越感そして競争心などです。それらは、人を傷つけ、また自分をも傷つけます。そういう闇の力が支配している状態があります。そういう生活の部分、そういう心理の隠れた層をもっていない人はいないのではないでしょうか。その意味で誰もが「闇」を抱えているのです。
あのクリスマスの夜、野宿をしていた羊飼いたちもそうでした。彼らこそ「暗闇と死の陰」に座している者たちの代表です。今の日本で言いうと路上で夜を明かすホームレスの人々といったところでしょうか。牧歌的な羊飼いのことを思い描くことは禁物です。当時の羊飼いは、宗教的に社会から排除されて、安息日を守ることができないため会堂(シナゴーグ)に入ることすら許されていなかったのです。その頃のユダヤの町々村々にあったユダヤ教の会堂シナゴーグは、神さまに礼拝をささげる場、またコミュニティの場であるだけでなく、日本で言うと市役所、町村役場の機能も果たしていました。ですから、彼らは、あらゆる保障を受けることができない人たちだったのです。
彼らは、羊を追い、野原で生活をし、町から排除され、社会からはみ出し、神さまを会堂(シナゴーグ)で礼拝することすらゆるされなかった人々だったのです。彼らこそみ言葉が浸透した生活をおくれなくされていた人々です。ですから、彼らのところに天使たちが現れて「恐れるな」ということばをかけられた時、びっくりし恐れたのは当然です。彼らは先に申し上げた通り、神さまからもユダヤ社会からも見捨てられていたと思っていたからです。自分たちは、無価値で雇い人から預かった羊を追い、草を食べさせることによってごくわずかな収入を得て最低の生活をしていたからです。貧しさとこの世の中で最も小さくされていた羊飼いたちにクリスマスの光は、臨んだのです。暗闇と死の陰の最も深い底に座っている人々にまことの光は臨んだのです。こうして国や社会の保証の光が届かない人々に神さまの憐みの光が届いたのです。そして、ベツレヘムの馬小屋で眠るみ子イエス・キリストを礼拝することができたのです。そう「恐れるな」ということは、闇を抱えた罪びと、つまり神さまを信じることも礼拝することができなくなっている人々のために主は来られた。つまり、罪びとの赦しのために、主が来られたのです。もっと端的に言いますと、信じない人の赦しのために、主が来られたということです。即ち、聖書では信じ主に従うことが救われたということなのです。世が示す救世主ではなく、父なる神さまが遣わした神の子を救世主としてまことの光として礼拝し、従うようにとクリスマスは私たちを招いています。
主イエスは「飼い葉桶である私たち心の中に宿ってくださいます。主イエスは、遠くから私たちを照らすお方ではありません。暗闇と死の陰から離れているお方でもありません。この私たちの世の中に降(くだ)りその中でも最も暗い希望も気力も愛も失いかけている絶望以外ない私たちの心の中に宿り、まことの光、生きる光を思い出させ立ち上がらせて下さるのです。光の道へと連れ戻し、神さまのみもとへと導いてくださるのです。そして、ベツレヘム近郊の草原で暮らしていた羊飼いのように飼い葉桶の乳飲み子をメシアとして受け入れ、礼拝してそれぞれの生活の場に帰っていくのです。「暗闇と死の陰」のある不安と孤独の支配する場、野原へと。しかし大きく変わったのは、彼らは光に照らされながらイエスのゆるしと救いの光の中で生きる者に変えられたということです。主と共に生き、闇を恐れない、死を恐れない者に変えられたのです。どこでも礼拝できることに気がついたのです。また、どこででも祈りつつ従うことができることに気が付いたのです。なぜならば、神さまが共にいてくださり守り導いてくださるというインマヌエル信仰が与えられたからです。
幼いころに障碍を持ち車いすの生活を余儀なくされた方が「ドント ウォリー マイ サン」という証をされました。彼の母親は、彼がどんなに辛く困難な時にも「あなたは私の大切な子よ、心配しないで」と言って育ててくださったそうです。そして、その言葉がその人の支えになったのです。クリスマスの出来事もこれと同じだと思います。私たちの父なる神さまは、子である人間、私たちに「あなたはわたしの大切な子どもだ。心配したり、思い悩んだりしないで生きていきなさい、私に祈りなさい」と言っておられるしるしの出来事なのです。このクリスマスの出来事の中を主と共に2022年を歩んでまいりましょう。