「かいば桶のキリスト」 ルカによる福音書2章8~20節

2021年12月15日
「聖書の学びの会」より法亢聖親牧師からのメッセージ。

「かいば桶のキリスト」  ルカ2:8~20           

「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」 (ルカ2:12)
 これがクリスマスのしるしです。そうです一番初めに貧しい羊飼いたちに知らされた福音(グットニュース)です。クリスマスの中心には、平安なイエスさまの姿があります。飼い葉桶の中の乳飲み子の姿の中に父なる神さまに信頼する神の子の姿があります。父なる神さまにご自身のすべてをゆだね信頼している美しさがそこに輝き出ています。
 本日の聖句の中に「寝ている」ということばが2度出てきます。12節と16節です。この言葉の語源は、ギリシア語で「カラウドォー」と言います。マルコ4章の記事に、イエスさまと弟子たちが乗っていた舟がガリラヤ湖の真ん中で嵐にあった時、「イエスは、艫(とも)の方で寝ていた(横たわっていた)」と記されています。その「寝ていた」はカラウドォーが使われています。ガリラヤ湖上の出来事は、人生の嵐の時にもイエスさまが共にいてくださることを指し示しています。
 ルカによる福音書には、もう一か所「カラウドォー」というこの言葉が使われています。ルカ23章53節です。「弟子たちは、イエスさまの遺体を十字架から降ろして、亜麻布で包みまだ誰も葬られていない、岩に掘った墓に納めた」。なんと、イエスさまの体が墓に納められる場面です。ここに全人類の罪のみがわりとなって十字架上で死なれたイエスさまの遺体は、墓に納められたとありますが、他でもないこの「納めた」と訳されている言語は、カラウドォーと同じ言葉なのです。このカラウドォー(寝ている、寝ていた、納められた)という言葉によって、最初と最後、イエスさまの御降誕とイエスさまの御受難(十字架の死と苦難)が一つに結び合されているのです
 主イエスの父なる神さまへの信頼は、全生涯を貫き、やがて十字架の犠牲の死に向かっていくのです。そして死を身に受け、葬りの中に身を横たえるのです。地上の生涯の初め、そして終わりに「寝ている主イエス」「身を横たえている主イエス」がおられるのです。何ものもこの主イエスの父への信頼を破ることはできません。この信頼がクリスマスの主の輝きです。
 このクリスマスの主の輝きは、私たちの人生を生きていくときの希望の光となるのです。そしてこの希望の光は、私たちがどのような試練の時であっても神さまを信頼する勇気へとまた神さまのご計画に身を委ねて生きる信仰へと立ち上がらせてくださるのです。この主イエスの輝きは、自分ひとりの幸せとか、自分だけの成功といった、この世の消えてしまう栄光を色褪(あ)せさせてしまう永遠の輝きなのです。失われてゆくものに問題の解決を求めても何の解決にもならないのです。ただ、永遠なるお方、決して失われることのない究極的な恵みを与えてくださるお方にのみ信頼していけばよいのです。クリスマスの主イエス、飼い葉桶のキリストは、私たちの中に神信頼に生きる力を呼び起こしてくださるのです。

 クリスマスの主は、復活され、今も聖霊となられ生き働かれておられます。み子イエスさまご自身が私たちの力となって下さることを信じて新しい年を飼い葉桶である私たちのうちに主イエスをお迎えして主と共に歩みだしたく思います。
  

「フットプリンツ イン サンド」
                                  作者不明
ある晩、男が夢を見た。
 夢の中で彼は、神さまと並んで浜辺を歩いていた。
 そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。
 どの場面でも、砂の上には二人の足跡が残されていた。一つは彼自身のもの、もう一つは神さまのものだった。
人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼は振り返り、砂の上の足跡を眺めた。
すると彼の人生の道程には、一人の足跡しかない場所が、いくつもあるのだった。
しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときにおきているのだった。
すっかり悩んでしまった彼は、神さまにそのことを尋ねてみた。
「神さま、わたしがあなたに従って生きると決めた時、あなたはずっと私と共に歩んでくださるとおっしゃいました。しかし、私の人生のもっとも困難な時には、いつも一人の足跡しか残っていないではありませんか。私が一番あなたを必要とした時に、あなたは私を見捨てられたのですか。」
神さまはお答えになられました。「私の子よ。私の大切な子供よ。私はあなたを愛している。私は、あなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみの時に、一人の足跡しか残されていないのは、その時は私があなたを背負って歩いていたのだ。」
 

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