2021年11月10日「聖書の学びの会」
法亢聖親牧師からのメッセージです。
「インマヌエル預言」 イザヤ7:10~17
「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」(イザヤ7:14)
1 神からのしるし
6章には、イザヤの召命とイザヤのその後の奉仕がどのようなものになるかが記されています。「メッセージを受け入れるなと語れ。しかも国の滅亡までだ」(6:9~12)、それは希望に満ちたものではありませんでした。7章のアハズとのやり取りもその一コマだったようです。アハズは、「神からのしるしを求めよ」言われた時にそれを断ります。アハズが6章のウジヤの時のことを知っていたとすれば、「上の高いところからしるしを求め」れば(11節)、自らの姿が神さまの前にさらけ出されることになるかもしれないと思ったとも考えられます。しるしを求めることを断ったアハズに対し、イザヤは、「主みずから・・・しるしを与えられる」(14節)と語りました。神さまの祝福は、取引ではなく恵みです。人間が真実でない時、神さまが新しい展開を与えてくださるということです。
2 名前はインマヌエル
イザヤの文脈の中で、この男の子が具体的にだれであったかを決めることは困難です。しかし、信仰的な意味では、マタイがメシアの預言者として引用したように、イエスさまを指していると受け止めることができます。「イム」は「共に」、「ヌー」は「私たち」、「エル」は神さまを表しています。従って、インマヌエルとは、「神が私たちと共におられる」という意味です。旧約聖書を見ると、神さまはしばしば危機的な状況の中で民と共にいて下さいました。私たちがこの御言葉を信仰的に捉えるならば、イザヤの文脈がそうであったように、人間的に希望が見いだせない状況の中でこそ、主が共にいてくださるというメッセージとして響いて来ます。
難しい状況に置かれる時があっても、神さまが私と共にいてくださるという恵みのメッセージを信仰を持って受け取りましょう。
3 わたしたちにとってのインマヌエル(イザヤ7:14)
イエスさまが人としてこの地上に来られたことは、旧約の時代に神さまが民と共にいてくださったこととは意味が違っていました。神さまは無限な方で、被造物であるこの世と違う次元に居られます。これは、時と空間に縛られておられないと言うことです。その方が私たちの救いのために時と空間の中に飛び込んで来られ、自ら、実に不自由になられたのがインマヌエルです。主は時を共有してくださるお方です。誰かのために時間を割くことは、エネルギーをその人のために用いることを意味します。その人を大切に思っている証拠です。
主は、空間を共有して下さるお方です。それは私たちの現場(生活の場)に居て下さると言うことです。神さまの恵みは無条件ですから、現場がどのような状態であっても、神さまが共にいてくださらない空間はこの世にはないと言うことです(詩編139編7,8)。まさかここまではきてくださらないだろうと思う場所にこそ、インマヌエルなのです。問題が複雑であればあるほど、主が一緒にいてくださることは大きな励ましです。
主は、傍らに「いて」くださるお方です。私たちは「いる」ことだけではなかなか満足できません。何かをしていなければ存在価値がないと思ってしまいます。特に現代は業績が求められます。しかし聖書は、「いる」こと、すなわち存在が祝福であると語ります。共に「いて」くださる主は、私たちの「いる」ことを喜んでくださるお方です。
今日、導かれたことがありましたらお証し下さい。
参考
マタイ1章23節(22節)。ルカ1:31,2:21
祈り
天の父なる神さま
私のために時を割き、私が今生きる現場(生活の座)に一緒にいて下さることを感謝します。また、自分が「この世に存在する」ことを喜ぶことができる者としてください。
御子のみ名によって祈ります。 アーメン