2021年11月7日深谷教会降誕前第7主日礼拝
聖書:マルコによる福音書12:18~27
説教:「生きているものの神」
法亢聖親牧師
讃美歌:21‐474、465
「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスさまのところに来て(復活について)尋ねた」(12:18)サドカイ派の人々は、旧約聖書の5つの書、「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」、いわゆるモーセ五書だけしか律法の書と認めていなかったのです。モーセ五書の中には、復活の記述がなく、律法の書に書いていないことは、即ち存在しないことであるとサドカイ派の人々は主張したのです。
使徒言行録には「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」(使徒23:8)とあります。サドカイ派に対してファリサイ(パリサイ)派の人々は、モーセ五書以外にも、律法について伝えられてきた伝承つまり、口伝承(くでんしょう)と言いますが、それらも同じ律法(聖典)であると信じていました。伝承というものは口から口へと伝えられるうちに、いろいろな変質や追加が生じます。その土地の民間伝説や神話的な表現が混入します。ですから、旧約聖書の39巻の中には、天使や霊など身近な存在として信じられていた表現が多くみられるのです。
さて、復活などないというサドカイ派の人々が、イエスさまのところへ来て次のようなことを尋ねたのです。「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」(マルコ12:19)。このことは、モーセ五書のひとつ申命記25章5,6節に記されています。サドカイ派の人々がこのように主張したのは当然のことです。当時のユダヤ社会は、家父長制の社会でした。家長による支配と家系の継承が行われていました。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。・・復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」(12:20~23)と質問しました。この質問が復活を信じている人がしたなら切実な問題でしょうが、この質問をしたのは、復活を信じていないサドカイ派の人々です。ただ単にイエスさまを困らせようとしただけの質問です。
しかしイエスさまは、彼らの無作法に対して、お怒りにならず次のようにお答えになられました。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」(12:24)。イエスさまは、サドカイ派の人々の冷やかし的な問いを本質的な問答にし、真摯にお答えになられました。聖書、つまり神さまの命のことばは、モーセ五書だけではなく他の34巻を含めて聖典であって、モーセ五書だけを聖典とすることは神さまの力と恵みを限定的にしてしまうと言われたのです。神さまの言葉や力は他の預言書や詩編などでも豊かに働いているのです。そして、それらの聖典の中には、霊や天使そして復活のことが記されているのです。イエスさまは、まずサドカイ派の人々のモーセ五書だけを聖典(律法の書)とする頑なさを指摘されました。
そのうえで、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と答えられたのです。
このイエスさまの答えには、当時のイスラエルの家父長制度で子孫を残そうとする社会に対するプロテストが込められています。当時のイスラエルの女性は、生まれた時から家に拘束され、嫁いだならば夫の束縛を受け、つまり女性は、差別され、束縛され、自由を奪われていた存在でした。イエスさまがここでおっしゃった死者の中から復活するとは、この世のしがらみから解放されるということです。つまり、死人からの復活とは、あらゆる束縛や抑圧という死の状況からの解放であり、天にいる使いたちのように自由な存在として生きることなのです。天国では、女性も男性も平等でみな同じ霊(天使)となって神さまに仕えるのだとおっしゃったのです。
イエスさまは、なおも続けます。「神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか、『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」(12:26)。アブラハム、イサク、ヤコブとは、ユダヤ人の先祖で、親、子、孫にわたる三代の名前ですが、ここでイエスさまは、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言っているのではなく、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と「一人一人の神」と言っておられたことに注目しましょう。それは、アブラハム、イサク、ヤコブという家督を相続した家系の神さまではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神として、一人一人の神さまであったということです。このことは、アブラハムから始まるイスラエルの家系的、血縁的共同体が否定され、一人一人の神さまという個人的、人格的な神さまが示されているのです。イエスさまは、アブラハムから始まるイスラエル民族の歴史とその共同体は、結婚と出産という人間の営みを通して現実には続いてきたのですが、しかしそれらが支配と差別を生み出すものであったことを見抜いておられたのです。
もう一つ重要なことは、ここでイエスさまは「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と現在形で語られておられることです。しかしアブラハムも、イサクも、ヤコブも、実際はすでに死んでしまっている人たちです。にもかかわらず、神さまは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と告げられるのです。そして私たちに向かっても、神さまは「あなたの神である」と言ってくださるのです。私たちの神さまは、死んだ者とともに生きて下さる神さまであり、そして今生きている者に向かっても「あなたの神である」と言ってくださっておられるのです。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」(マルコ12:27)
讃美歌465番「神ともにいまして」は、英語では、“God be with till we meet again”です。「私たちが再び会うときまで、神さまがあなたと一緒にいてくださるように、と繰り返すこの讃美歌は、神さまがあなたと一緒にいてくださるから、私たちは再び会うことができるのです。と理解することもできるかと思います。神さまが共におられるがゆえに、私たちはその神さまにあって、再び会うことができると信じるのです。