「十人のおとめのたとえ」マタイによる福音書25章1~13節

聖霊降臨節第21主日礼拝(召天者記念礼拝)
聖書:マタイによる福音書25章1~13節
説教題:「十人のおとめのたとえ」
     法亢聖親牧師
讃美歌:21‐453、21‐474

 花婿がやって来るのを十人のおとめが待っていました。彼女たちは、花嫁の友人たちです。ところが、花婿は、いつまでたってもなかなか来ません。夕刻になっても来ないのでみんな待ちつかれて10人とも眠ってしましました。その時突然、「花婿が到着したぞ」と言う声が響き皆びっくりして、とび起きました。ところが、ランプの火が消えかかっています。十人のうち「5人の賢いおとめ」は予備の油を用意していましたが、「愚かな5人のおとめ」は予備の油を用意していなかったので慌てふためきました。そこで予備の油を持っているおとめに頼みました。「お願いです。油を分けて下さい。この借りはきっと返します。」からと。しかし、「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」と冷たく断れてしまします。「愚かなおとめたち」がその通りにして買って帰って来ると、すでに花婿は到着し、扉は中から閉められていました。
「ご主人様、ご主人様、開けて下さい」と叫びますが、こう言われてしまうのです。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」(12節)。
 とても厳しい話です。この主人つまり、花婿も厳しいですが、「5人の賢いおとめ」も冷たすぎるのではないでしょうか。
 イエスさまの教えからすれば、たとえ自分の油がなくなって、共倒れになったとしても、油を分けるべきであるのではないでしょうか。イエスさまは、「愛」を生涯かけて説かれただけでなく、ご自身の命までも私たちにお与え下さったほどに私たちを愛してくださったお方です。ですから、「賢い5人のおとめ」は、イエスさまの弟子失格ではないでしょうか。しかもこのたとえは、イエスさまご自身が語られたのですから、いよいよ真意を測りかねます。
 それでは、この厳しいたとえ話の焦点は、一体何なのでしょうか。それは、私たちの人生には、どうしても分かち合うことのできないものがあるということです。もちろん、私たちには分かち合うことのできるものや分かち合わなければならないものはたくさんあります。
 私たちは教会に集い、共に祈ります。聖書のみ言葉を共に聞きます。信仰の恵みを分かち合い、共に主を待ち望みつつ、希望を分かち合います。そればかりか、悲しみも喜びも痛みも分かち合います。神の家族の中だけでなく、教会の外においても様々なものを分かち合います。そのように生きていきますと、私たちの生活、信仰も豊かになっていきます。しかし、そうでないものもあります。そのうちの一つが責任です。もちろん責任も負い合うことによって軽くされることも事実ですが、どうしても自分自身が負わなくてはならないものもあるわけです。もう一つは、罪です。こればっかりは、人に代わってもらう分けにはいきません。その罪の咎(とが)を本人が受けなければなりません。私たちがその人の罪を許すことはできても。そして、他の人が全く介在することが出来ないのが、死です。死だけは分かち合うことが出来ません。私たちはひとりで死んでいかなければならいのです。それはどんなに恵まれた人生を送った人でも、例外なく厳粛な事実です。
 本日の「賢い5人のおとめたち」は冷たいようですが、本当は親切なおとめであったとしても、分けてあげられないものがあることを示しているのです。先に述べましたようにどんなに素晴らしい人でも死は訪れるのです。
 だが、このたとえは、天の国のたとえで25章13節に「愚かなおとめ」のようなことにならないようにとの福音の響きがこだましています。それは、この花婿が閉めた扉が天の国への扉であるとすれば、その扉は私たちの前でまだ閉まっていないということです。今、このたとえを聞いているすべての人の前に開かれているということです。イエスさまは、ヨハネによる福音書14章2節で「わたしの父の家には、住むところがたくさんある」と言われました。つまり、このイエスさまのお言葉は、「誰でも、何人でも入れますよ」との招きの言葉です。私たちは、その招きに応えて、主がお迎えに来てくださる時(日)を待ち望んで生きるのです。
 問題は、「時」を見失わないようにするということです。イエスさまは言われます。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(13節)と言われました。ここでイエスさまは、「目を覚ましていなさい」と言われましたが、実はこのたとえの「賢いおとめたち」も眠っていました。つまり、イエスさまがここで問うているのは、眠っていたか、起きていたかではなく、油を用意して眠っていたか、用意しないで眠っていたかと言うことです。「10人のおとめたち」は、今か今かと目を覚まして一生懸命起きていましたが疲労困憊して眠ってしまったのかもしれません。私たちは眠らないと身も心ももちません。信仰をもって生きるということは、ちょうど「賢いおとめたち」のように油を用意して生きるということだと思います。きちんと油を用意していれば、多少彼女たちのように居眠りをしてしまってもいいのです。イエスさまは、信仰と言う油をもってリラックスして生きて行けばよいということをこのたとえを通して伝えられたのです。
 私たちの人生では、いつ何が起こるかわからないのです。突然、家族に大変な不幸が起きたとか、自分自身の命が後何日と言う宣告をされたとか、そうした時に、この世の人や、この世の力ではどうすることもできないのです。何が起ころうともおどおどしない人生を歩むためには、「いと小さき者の内にいらっしゃる主」を信じ助け合いながら生きて行けばよいのです(マタイ25:40)。その先に天の御国が備えられているのです。復活の主を信じる信仰を人生の土台に据えるなら、どんな嵐や艱難辛苦、そして死の陰の谷を歩むことがあったとしてもゆとりと希望をもって生きていくことが出来るのです。
 

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