「今からでも遅くはない」マタイによる福音書20章1~16節

2021年9月26日聖霊降臨節第19主日礼拝
法亢聖親牧師説教「今からでも遅くはない」マタイ20章1~16
讃美歌:21‐390「主は教会の基となり」21‐532「やすかれ、わがこころよ」
    歌唱:渡辺清美姉

 本日のブドウ園のたとえは、天の国のシステムを指し示しているイエスさまのたとえです。ブドウ園の主人が、自分のブドウ園で働く人を探しに広場へ行きます。最初は夜明け前に行き、一日1デナリオンの約束で何人かの人を雇いました。朝の9時ごろ、また広場に行ってみると、まだ仕事のない人がいます。主人は、「あなたたちもブドウ園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」(4節)と言って、彼らも雇いました。12時ごろ、3時ごろにも広場に行きます。まだ何もしないでいる人々がいるので、主人は彼らを連れて行きました。そして、なんと夕方の5時です。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」(6節)と尋ねると、彼らは「誰も雇ってくれないのです」(7節)と答えました。主人は、「あなたたちもブドウ園に行きなさい」と連れて行くのです。彼らには、一時間しか働く時間がありませんでした。
 一日の終わりに、主人は、監督に最後にやってきた人から始め1デナリオンずつ渡すように命じました。賃金は、何時に来た人にも平等に1デナリオンずつ支払われたのでした。朝早くから来た人たちが「一日、暑い盛りも辛抱して働いた私たちと、この最後の一時間しか働かなかった連中と同じ扱いにするのですか」(12節)と不平を言うと、主人はその一人に「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(13、14節)と、たしなめられました。確かに、朝早くからひたすら働いてきた人が、不平を言いたくなるのはあたりまえな気がします。否、この世の公平感からすれば当然です。ただしイエスさまは、すでにそのような意見を見越しておられるのです。これは、天の国のたとえであり、天の国のシステムが、いかにこの世のシステムとは違うか(この世のシステムを超えているか)ということを示そうとなさったのです。このたとえ話を読み、まず第1に考えさせられるのは、広場にあふれる失業者の群れという設定です。日本の現状を考えて、生活困窮者の立場、働きたくともパートや日雇いの仕事すらあたえられない人々の立場に立ってこのたとえを読み返してみると、寄り添ってくださるこのたとえの主人・イエスさまの愛の深さに心が打たれるのではないでしょうか。
 イエスさまは、この世から見捨てられた人や見捨てられようとしている人を決して見捨てず、かえって寄り添ってくださるお方です。そうしたイエスさまに従う主の体である教会では、現在、生活困窮者やその家族に寄り添うあかしとして「子ども食堂」などを運営している教会も増えてきています。そうした働きが出来なくともせめて祈りを合わせ、そうした働きを支援していきたいものです。
さて、このたとえには、もう一つのメッセージが込められています。何度も広場に来る主人の姿です。夜明けに、朝9時に、12時に、午後3時に、そして、夕刻の5時に。何のために、そこまで主人は出かけてくるのでしょうか。それは、自分の仕事をさせるためです。同時に、彼らに喜びと平安を与えるためでもあるのです。ここでは、この世の常識を超えた主人の情熱が示されています。夕方の5時に広場にいた人々は、どういう人々でしょう。一日中待っていたのに、雇ってくれる主人が現れなかった。或いは、雇われたがブドウ園に行ってみたけれど、仕事がなかった。だまされて戻ってきた。などが考えられます。
 私たちの人生においても、そういうことがあるのではないでしょうか。確かな主人のいない生活と言うものは、一見、自由なように見えますが、空しいものです。ここに記されている時間には、何か意味が隠されているように思います。この主人が出かけてきてくださった時間とは、私たちの「人生の時期」のことだと思います。私たちは、どこに「自分の時期」を見出すでしょうか。昼の12時ごろ雇われたという人もおられるでしょう。「夕方信者」だという方もおられるかもしれません。若き日に洗礼を受けて、ずっとクリスチャンとして生活をしてこられた方もおられることでしょう。そういう方は、「あとで洗礼を受けた人も、同じ報いを受けるなら、早くからクリスチャンになって損をした。もっとやりたい放題なことをしてからクリスチャンになればよかった」と思われるでしょうか。おそらく、そうゆう風に考える人はいないと思います。もしもそうだとしたなら、主イエスに従って生きる喜び、そこで得た平安と言うことを忘れていることになるのではないでしょうか。
 イエスさまに従って生きることの報いは、死んだ後に与えられるものではないのです。今、この瞬間、既に与えられているのです。永遠の命と言うものも、やがて与えられるというよりは、イエスさまに繋がっていることそのものです。だから、「後の者が先になり、先の者が後になる」(16節)ことがあっても、そうであってもよいと喜べるのです。
 東京の教会にいる時のことでしたが、病床洗礼を授けさせていただいたことがあります。余命いくばくもないご婦人で、昏睡状態に入っておられた方です。その方のご主人から妻に洗礼を授けていただきたいとの電話を受け、私は即刻、そのご婦人との友人であった長老ご夫妻と共に病室に駆け付け洗礼を授けさせていただきました。その洗礼式の最中、不思議なことが起こりました。私が「イエス・キリストを救い主と信じますか」と質問した時、昏睡状態の姉妹が息絶え絶えの呼吸の中で返事をされたように一同聞こえたのです。その不思議な体験をした一同は、感激とこの姉妹がキリストとつながったという喜びに満たされたのでした。そして、クリスチャンとなられたご婦人は、洗礼を受けられてからの呼吸は静かになり、翌日、昏睡状態のまま平安の内に帰天されました。
 私は、この体験をしてから、イエスさまの本日のたとえの「後なる者が先になり、先なる者が後になる」と言うみ言葉の意味を悟ることが出来ました。
 いつキリストに従うのか。今、キリストに向き合っているならば、今、招かれていることに気づくべきだと思います。洗礼を受けたらそれで終わり、と言うことではないのです。私たちは、クリスチャンになった後も、時々御心に背いてしまうことがあります。そこで、いつも新しく、招きに応えて生きる決心をするのです。今がその時です。

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