聖霊降臨節第17主日礼拝
説教:「ゆるし合うために」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-542 「主が受け入れてくださるから」
ペトロは、イエスさまに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」(21節)と尋ねました。イエスさまのご在世当時、ユダヤ教の学者は、誰かが自分に対して罪を犯した時に、「3回まで赦してやりなさい」と教えていたようです。ペトロはその上を行き、イエスさまにほめてもらおうと7回までですかと言ったのだと思います。しかし、イエスさまは、ペトロがビックリするようなお答えをされました。『あなたに言っておく。7回どころか7の70倍まで赦しなさい。」(22節)。だが、イエスさまがここでおっしゃろうとしていることは、回数やどこまで我慢すればよいかと言うことではありませんでした。そのことをペトロに悟らせようとして、イエスさまは、一つのたとえをお語りになられたのです。
それは、「借金比べというたとえ」です。王さまが家来に、1万タラントンのお金を貸していました。1万タラントンとは、想像できないような額です。1タラントンは、6000デナリオンです。1デナリオンは、労働者の一日分の所得(平均1万円?)です。1タラントンは、6000万円で、その1万倍だからです。後のほうで100デナリオンが出てきます。こちらは、想像がつきます。100万円前後です。とにかく6000万円の1万倍の額の1万タラントンは、一人の人間がどのようにしても返済できる額ではありません。
このたとえで神さまが王さまにたとえられていることは、誰にでも分かることと思います。私たちの罪、負い目というものは、私たちがどんなに償っても償い切れるものではありません。それにもかかわらず神さまは私たちを認め、赦してくださっている。そうした私たちと神さまとの不釣り合いな関係を思い起こさせようとされたのです。この家来は「どうか待って下さい。きっと全額をお返しします」(26節)としきりに頼みます。さて、王さまは、どうしたでしょうか。「その家来の主君は、憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)。これがこのたとえ話の 第1幕です。
この家来は、赦してもらい牢屋にほうりこまれることなく釈放されました。その解放された直後、今度は自分がお金を貸している仲間に出会いました。100デナリオン(100万円)貸していた仲間です。その人の首を締め上げて「借金を返せ」と迫りました。この仲間も「どうか待ってくれ。返すから」と頼みました。しかし、彼は、その仲間の懇願を聞かないで、牢屋に入れてしまいました。こちらの方は、本気で一生懸命に働けば返せない額ではありません。私たち人間同士の負債は、神さまに対する負い目に比べたら、その程度のものと言うことを暗示しているのではないでしょうか。第2幕は、ここで終わります。
そして、第3幕は、牢屋に入れられた人の友人が王さまにすべてを打ち明けて、牢屋に入れられた友人をなんとかしてくださいと直訴しています。それを聞いた王さまはその家来を捕らえ「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(32,33節)と言って今度は、その家来の方を牢屋に入れてしまいました。
さて、この3幕から構成されたたとえには、どのような意味が込められているでしょうか。第1の意味は、王さまが家来を赦すときに何の条件も付けなかったと言う点にあります。神さまの愛の赦しは、無条件です。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の3章で「正しい者はいない」(ローマ3:8)。また、ローマの信徒への手紙の5章で「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのです」(ローマ5:8,9)と福音を解いています。つまり、パウロは、私たちがよい行い、律法を守ることによって救われるのではなく、イエスさまをキリストと信じ受け入れることによって救われる信仰義認を説いています。そして、この神さまの恵みは、無条件で無制限に与えられるものであると本日のたとえでイエスさまは伝えておられるのです。そうした神さまのみ心に触れる時、私たちの中で何かが起こり変わるのです。限界を持ち、人を赦すことができない自分が神さまから赦されている罪人であることに気づく時に、変わるのです。また、人を傷つけ裏切ってしまったときなど「ごめんなさい」と言える人間に変わるのです。その時「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」と祈る「主の祈り」が実現していくのではないでしょうか。
そして、もう一つの意味です。それは、この家来がしたことは、第1幕のことがなければ正当なことです。家来は、友に法外な高利で貸していたわけでもないし、彼が即刻友を捕まえて獄に入れてしまったくらいですから、この仲間はなかなか借金を返そうとしない人物であったと推測できます。ですから、この家来は、正当なことをしたと言うことになるのではないでしょうか。つまり、正当なことをしている時に私たちの罪の姿が見えてくるのではないでしょうか。しかし、神さまとの関係という次元で見た時に、初めて気が付くのです。人を裁き、自分の正当性を押し通すことは、何の解決にもならない。誰の得にも喜びにもならないし、真の和解も生まれないと言うことに。現実の私たちの世界は正当な権利を主張し合う中でいがみ合っています。それぞれに言い分があります。兄弟げんかもお互いに言い分がありますし、国と国の関係でも、それぞれ正当な大義をもって戦争をするのです。正当な理由で殺し合う。どう考えてもおかしいことです。そうした枠組みから抜け出すには、神さまとの関係に立ち返って相手をまた自分を振り返る必要があるのです。
ここに平和や和解、そして仲直りの鍵があります。つまり、神さまが御子イエス・キリストをこの世に、私たちの救いのために遣わされ十字架にかけて生贄(いけにえ)として下さった。その神さまに背き自分中心に生きている私たちの罪とその咎(とが)を帳消しにして下さったのです。実に、そういう犠牲を払って神さまは「私たちの死すべき罪・この世のものでは償うことのできない借金を帳消しにしてくださったのです」。聖書のゆるしとは、単に我慢することではなく、私たちが変えられること、そして、新しい生き方へとうながされることだと思います。償い切れないほどの負債を神さまに赦していただいたことを思う時、私たちは、ゆるし合うことのできる人間に変えられるのではないでしょうか。