2021年8月29日聖霊降臨節第15主日礼拝
法亢聖親牧師説教
讃美歌:21‐579
本日の三つの「天国のたとえ」のうち前者の二つの天国のたとえから見てまいりましょう。「畑に隠された宝」と「よい真珠を探している商人」のたとえです。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13:44節)。
当時のユダヤでは、自分の財産を守るために、その財産を土の中に隠しておく習慣があったようです。ところが財産の所有者が突然死んでしまったような場合、その宝が誰にも知られないままになってしまうことが度々あったようです。ですから、誰のものかわからないその財産は、その土地の所有者のものになります。このたとえに出てくる人は、誰かに頼まれてこの畑を耕していたのでしょうか。或いは、たまたま人の畑を歩いていて、何かにつまずき掘って宝物を見つけたのでしょうか。とにかく、宝のことを隠しておき、家に帰り持ち物をすっかり売り払って、その畑を買ったというたとえです。
「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を見つけると、出かけていって持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13:44~46)。この人は、商人ですから、真珠のことをよく調べていたことでしょう。どこへ行けばありそうかも大体検討をつけて探していたことでしょう。そして、とうとう高価な真珠を見つけたのです。
この二つのたとえはよく似ていますが、違いがあります。前の方のたとえは、偶然宝物を見つけたのに対して、後の方のたとえはどこに行けば宝物があるかを調べてその宝物を手に入れたのです。このことは、私たちとイエスさまとの出会い方を指し示しているのだと思います。前者のたとえは、こちらから求めていないのにイエスさまに出会った、否、イエスさまの方から出会ってくださるという出会い方を指し示しています。パウロもそうです。イエスさまとの出会いを求めてもいないのにイエスさまの方から出会ってくださったのです(使徒9:1~9)。つまり、求めていないのに、偶然出会ったのです。一方後者は、良い真珠を探し求めています。非常に積極的に熱心に求めています。ちょうど、真理を求めて教会にいらした人を指します。そして、探し求めていたものがあったとしてイエス・キリストの福音を心を開いて受け入れていくのです。先のパウロの記事の前に、エチオピア人の宦官(かんがん)がフィリポと出会う記事があります(使徒8:26~40)。この宦官は、真理を求め、信仰を求めて、一人で熱心に聖書を読んでいましたが、なかなか意味が分からないのです。特に、イザヤ書53:7,8の預言はちんぷんかんぷんでした。そこへフィリポが現れて。イエス・キリストの福音を説き明かしたのです。このエチオピアの宦官は、宝物を見つけたように喜んで、その場で洗礼を受けたのです。
さて次に、二つのたとえの共通点を見てみたいと思います。二つのたとえの共通点の第一は、どちらも飛び上がるほど大きな驚きと喜びに満ちていることです。「持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」とあるように、自分の持てるものをすべてつぎ込んでも惜しくないと思ったのです。出会い方こそ様々ですが、イエス・キリストと出会うということはまさに最上の喜びであるのです。そして、もう一つの共通点は、「宝」である「天の国」は見つけにくいということです。「天の国」を神さまのご支配と言い換えてもよいと思います。神さまのご支配は、隠された宝のように人の目には隠されているのです。
ファリサイ派の人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねた時、イエスさまは、「神の国は、
見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:20,21)と言われました。(注:ルカ福音書の「神の国」とは、マタイ福音書の「天の国」と同じことです。)
イエスさまは、これまで大勢の群衆に向かって「天の国」のことをたとえで話されました(マタイ13:34)。それからイエスさまは、「群衆を後に残して家にお入りになった。」(マタイ13:36)とあるように、本日のたとえは家の中で弟子たちにだけ語られたものです。イエスさまは、弟子たちに向かって、「あなた方は今、その宝ものを手に入れているのだ」と告げられたのです。そうです。偶然イエスさまに出会った人も、イエスさまを乞い求めて出会った人も。三つ目のたとえは、前の二つのたとえと違います。
「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう」(マタイ13:47~50)。
とても厳しいたとえです。すぐ前の「毒麦のたとえ」(マタイ13:40~43)のように「もしかすると自分も燃え盛る炉の中に投げ込まれるかもしれない」と不安になるかもしれません。こうした「世の終わり」のたとえは、過少に受け止めてもいけませんし、同時に過大に考えることもよくないと思います。
このたとえが言おうとしているのは、終わりの日には、神さまが完全に勝利され、「悪」は滅びると言ことです。私たちは、この世界にどうして悪がなくならないのかと問います。しかし、神さまはそれを無視しておられるのではないのです。きちんと悪を終わらせることをお考えなのです。先に、イエスさまは、「毒麦のたとえ」を語られておられます。それは、悪人が悪の支配から解放される時まで待ってくださる、つまりこの世から悪(悪の支配)がなくなる時まで待ってくださるという福音がそこにはあるのです。
究極的には、「天の国」は喜びに満ちたところであると言うのが、聖書の根本的な福音の響きです。私たちはそこでの裁きが恐ろしいから悔い改めるのではなく、むしろこの大きな宝物を発見して、持てるものをすべてつぎ込んで、その喜びに連なりたく思います。