「しるしと信仰」 マタイによる福音書12章33~40節

2021年8月15日聖霊降臨節第13主日礼拝
法亢聖親牧師説教 
説教題:「しるしと信仰」 マタイによる福音書12章33~40節

イエスさまは、ご自分が「神の霊で悪霊を追い出している。」(マタイ12:28)と言われました。それを聞いて律法学者やファリサイ派の人々は、「先生、しるしを見せて下さい」(12:38)と言いました。本当にイエスさまが神の霊で追い出しているのか、というより本当に神さまによって遣わされたお方なのか、もしそうであったら何らかの「しるし」、つまり、証拠を示して欲しいと言ったのです。イエスさまを亡き者にしようと考えていた彼らでしたが、ひょっとしたらナザレのイエスは、旧約聖書の預言者たちが預言をしているメシアではないかと心の片隅で思い恐れていたので、イエスさまが、メシアである確証となる「しるし」が欲しかったのだと思います。
 パウロは、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(Ⅰコリント1:22)と言っています。しかし、イエスさまが救い主(キリスト)であるということを残念ながら科学的な証拠を示すことも論理的に証明することもできません。人間の知恵や力を超えたこと柄だからです。マタイ福音書は、イエスさまを旧約聖書の預言の成就者としてこの世に来られたことを強く意識して記していますが、それでもすべての人に通じる言葉ではありません。分かる人にだけ分かる言葉です。つまり、創造主であるお方を信じるように、イエスさまをメシア(キリスト)であると信じるか否かである「信仰」の世界の事柄なのです。それは単に「知識として知る」と言うことではなく、決断を伴います。洗礼式の時、自分の罪を告白し、「主よ、あなたを救い主(キリスト)と信じます。主よ、終わりまで従います」と信仰を告白したように。そのことをパウロは、「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした。それは神の知恵にかなっています」(Ⅰコリント1:21)と言っています。
 イエスさまは、律法学者やファリサイ派の人たちの問いにお答えになられました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(12:39)。律法学者たちが期待している「しるし」はないが、「しるしが全くないわけではない」と言われたのです。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(12:40)。なんだかなぞかけのような言葉です。ヨナと言う預言者は、「ニネベに行きなさい」と言う神さまの命令に背いたため、大嵐にあい、海の中に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれ、そのお腹の中に三日三晩閉じ込められました。しかし、その後、魚から吐き出され、今度は神の命令に従って、ニネベに行くこととなりました(ヨナ書)。「人の子」もそれと同じように、「三日三晩、大地の中にいる」というのです。このヨナのしるしとは、「イエス・キリストが十字架で死に、三日間、陰府(よみ)に降る」ということを指し示しているのです。
 このヨナのしるしは、逆説的に理解する必要があります。イエスさまは、ここで「ヨナが大魚から三日目に吐き出されたように、人の子も三日目に復活する」と言えばよいところを、あえてその手前、つまり「十字架で死に、陰府に降る」と言うできごとを「しるし」として挙げられたのです。それは、イエスさまが十字架に架けられた時、人々は何と言ったでしょう。人々は口々に「今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば信じてやろう」(マタイ27:42)と「しるし」を求めましたが、イエスさまは、十字架から降りて見せることによってではなく、逆に十字架から降りずに、そのまま陰府にまで降ることによって、神の子であることを示されたのです。ヨナは自分の罪のために大魚の腹の中に閉じ込められましたが、イエスさまは人の罪のために「大地の中」陰府にまで降られたのです。
 「イエス・キリストが救い主であるなら、そのしるしをみせて。ほしい」と言う問いは、今日でも私たちキリスト者に向けられている問いではないでしょうか。私たちは、そのしるしを科学的、実証的に提示することはできません。究極的には、私たちがイエスさまを信ずる信仰によってどのように生かされているかと言う“証し”を提示するしかないのです。どの宗教がよいか、悪いか、信頼に足る宗教かどうかは、結局その宗教がどのような人間を産み、どのような人間を育ててきたか、或いはどのような社会的影響を与えてきたかと言うことを“証し”によって示すしかないのです。イエスさまは言われました。「「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実でわかる」(12:33)。「実」こそが、その「木」の善し悪しを知る「しるし」なのです。
 イエスさまが祭司やファリサイ派の人たちとの対話の中でこのみ言葉を通して伝えようとされたのは、彼らの心の奥底にある悪意を指摘するためでした。本日の聖書の箇所の少し前の12章9~14節には、「安息日論争」でイエスさまに言い負かされたファリサイ派の人たちが、その後で、「イエスをどのようにして殺そうかと相談をした」(12:14)と記されています。そんな彼らに向かってイエスさまは、厳しい言葉を語られました。「蝮(まむし)の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうしてよいことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」(12:34,35)。イエスさまがおっしゃる通り、人の内面が汚れていれば、表面や言葉をとりつくろっても意味がなく、自然に、本音や本性(ぼろ)が出てしまうものです。
 それでは、どうしたら内側をきれいに(清く)することが出来るでしょうか。私たちは、自分で自分を清くすることはできないのです。唯一できるとしたら、それは、悪霊を追い出し、清い霊を送って下さるイエス・キリストを、内側にお迎えすることではないでしょうか(マタイ12:28)。
 ダビデ王の詩編に「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊をお授けください」(詩篇51:12)とあります。この言葉は、イエスさまのご降誕によって成就したのです。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした。あなたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4:4~6)。

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