保母光彦牧師説教 2021年8月8日聖霊降臨節第12主日礼拝
★説教題:「さばかない」
マタイによる福音書7章1~5節・ガラテヤ人への手紙6章1~5節
★暗誦聖句
・8月9日 (月):マタイによる福音書7章1節●
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
・8月10日(火):マタイによる福音書7章2節●
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
・8月11日(水):マタイによる福音書7章5節●
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
・8月12日(木):ガラテヤ人への手紙6章1節●
兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もし自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
・8月13日(金):ガラテヤ人への手紙6章3節●
もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。
・8月14日(土):ガラテヤ人への手紙6章5節●
人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
★説教要約
*目標:「さばく」ことの意味を知り、自分の態度を点検する。
*主題:さばきは神のなさることである。
*暗誦聖句:「さばいてはいけません」 (マタイ7:1●)
「さばいてはいけません」。なぜなの?と気になります。
「自分がさばかれないため」。それならわかる。実際、日々の生活において基準として機能している面もあります。(何のこと、とお思いになる書き方ですが、判りますよね)
しかし、矛盾もあります。若い頃、人のことを悪く言うと、大人からこのみことばが出てきました。生意気盛りで負けていません。それをオレに言う大人は、オレのことをさばいていないのかな?
よく考えてみれば、誰もこの言い方はできません。人に「さばくな」と言った瞬間、その言い方が人をさばく言い方だからです。
1.さばかない努力
さばくのはやめようと、何度も自分に暗示をかけます。それでも一日が終わるとき、ああ今日も、あの人のことを心の中で蔑んだなあ、などと思えば、心も冷めてしまいます。「人をさばかないキリスト者」という看板を掛け、実態は、毎日人のことをさばいて、まあいいか、となかったことにしている。そんな正直でない生き方になるかもしれません。
さばくと、あまりよい気持ちはしません。それで、少し考えます。「さばく」と「批判する」って、どう違うのだろう? こんなことが気になるのは、実はさばいていることに引け目を感じ、自分は評価しているだけだと言いたいのかもしれません。評価はかまわないとすると、こういう祈りになるでしょうか。「神様、今日はあの人のことを心の中でこき下ろしましたが、さばいたのではありません。評価しただけです」。しかし、こんなことを気にしてなどいたら、面倒でやっていられません。こんな不自由な信仰生活はありません。
2.イエスのおっしゃり方?
では、イエスが「さばいてはいけません」とおっしゃった時、どんなことを意味していたのでしょうか。
ここでイエスは、文字どおりさばくことを禁じているというより、むしろ、「さばかないで生きることはできないでしょう」という含みでおっしゃっているのです。ある種のユーモアです。弱い私たちに対する共感と温かい目線が含まれているのです。
3.利害関係を超えて
この箇所は、字義どおりにとれば、自分がさばかれないために、人の小さなことには目をつぶろう、とも読めます。しかし、そういうことではありません。これは「山上の説教」の基調になっている惠の原則に合いません。そもそも、自分がこのようにしてもらいたい(この場合、さばかれたくない)から、相手に対してそのようにしよう(目をつぶろう)という考え方には限界があります。この考え方の最大の欠点は、相手は必ずしも自分がしてほしいようには考えていないということです。それがよくわかるのは、身近な人間関係です。妻に対して、子どもに対して、自分が良かれと思ってやったことが全然ありがたくないということもありえることです。
人をさばくと、同じ基準が自分に返ってくるから人をさばくのはやめようということでもありません。さらに、もう一つ、さばくと神からもさばかれるから、人をさばくのをやめよう、ということでもありません。これらは真実な姿勢だとは思いますが、この聖書の文脈からすると最終的な答にはなりません。また、イエスは梁とちりの話をしておられますが、自分の目から梁を取りのけると、兄弟の目からちりを取り除く権利が与えられるということでもありません。それでは、さばくとはどういうことなのでしょうか。
4.さばくことって?
さばくとは、自分以外のものが自分の世界に入ってくるとき、それを排除しようとすること。それくらい、自分が見えていないこと。つまり、裸の王様になってしまうことです。このような自己絶対化を、聖書では「罪」と言います。それが問題だというのがイエスのおっしゃりたかったことです。自分を絶対化すると、人の小さな欠点を指摘し、自分の姿が見えなくなってしまいます。このように見ていくと、さばくことがいけないというよりは、自分を見ない姿に問題があるとおっしゃりたかったのではないかと思います。信仰とは、自分を見ることです。
(河村従彦先生)
【聖書から】 マタイによる福音書7章1~5節(新共同訳)
●7:1「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
●2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。●5偽善者よまず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、 はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
ガラテヤ人への手紙6章Ⅰ~5節
信仰に基づいた助け合い
●6:1きょうだいたちよ、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち返らせなさい。2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
●3 実際に何者でもないのに、自分をひとがどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。●5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。