「祈り、神と共に生きる」 マタイによる福音書6章5~8節

法亢聖親牧師説教 2021年7月4日主日礼拝

説教題 「祈り、神と共に生きる」
マタイ6章5節~8節

「彼らの真似をしてはならない、あなた方の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」(マタイ6:8)
イエスさまは、本日の聖書の箇所で「祈っているところを人に見せたがるな」と言われています。イエスさまの時代、決まった時刻になれば、どこにいても大声で祈りをする。それが敬虔な信仰者の態度であるとされていました(5節)。しかし、それが形だけの人に見せるだけのパフォーマンスであるならば、神さまの前では、意味がないことだとイエスさまはおっしゃっておられるのです。祈りは、神さまとの対話であるからです。私たちは一人で神さまと向き合うのです。イエスさまご自身も、しばしば弟子たちから離れてお一人で父なる神さまと祈る時を持たれました(マタイ14:23)。また、6節では一人で祈る密室の祈りが奨励されています。このようにお話をしますと「礼拝の公同の祈りや、祈祷会での祈りはおかしいのではないか」などと勘違いをされる方がおられます。本日の御言葉が伝えようとしているのは、「祈る場所の問題」ではなく、「祈りの姿勢の問題」なのです。祈りが誰に向かってなされているかが問題なのです。ですから、公な礼拝で献金のお祈りを神さまに対してささげることは、神さまのみ心にかなったことですし、祈祷会で自分のことだけでなく、牧師や兄弟姉妹のことや教会の宣教のわざが祝されますようにと祈ること、コロナ禍が一日も早く終息しますようにと祈ること等、執り成しの祈りをすることは、神の子とされたキリスト者である私たちのつとめでもあるのです。むしろ、隠れた所で祈りなさいと言うイエスさまの言葉を鵜呑みにし、隠れたところという場所にこだわりすぎないように気をつける必要があります(6節)。
密室の祈りは、私たちの信仰を高め強めるためにはとても大切なことですし、ここでイエスさまが伝えようとしている真の意味は、神さまと深く強く密接に交わるため密室の祈りをする時間を持ちましょうと言う事なのです。
祈りの基本はひとりで祈ることですが、私たちは祈りをどこで学ぶのでしょう。礼拝や祈祷会のような交わりの中で学ぶことができるのではないでしょうか。祈ることを知らなかったものが、礼拝に出席し、祈祷会などに連なることによって、生きた祈りを学ぶのです。「学ぶ」という言葉の語源が、「真似(まね)ぶ」であるように、祈りも牧師や信仰の先輩から学ぶことによって身につくのではないでしょうか。人の祈りに連なることによって生きた祈りを学ぶのです。
次に7、8節を見て参りましょう。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない」(7節、8節)。「異邦人」とは、ここではキリスト教の信仰を持たない人のことでしょう。信仰を持たない人が祈ると言いますとちょっと変に思われるかもしれません。キリスト教信仰を持たない人でも全能の父なる神さまにではありませんが、自分たちの神さまに神頼みをします。そうした祈りのことを念頭においてイエスさまは、弟子たちに語っておられるのです。
そして、一番本日の御言葉で重要なのが「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」(8節)というこのフレーズです。驚くべきことに、私たちに必要なことを私たちの父なる神さまは、すべてご存知であるというのです。だから、くどくどと祈る必要はないと言うわけです。つまり、この8節の言葉が本日の聖書の箇所全体にかかっています。すでに神さまが私たちの必要をすべてご存知でしたら祈らなくてもよさそうに思ってしまいますが、それは、思い違いです。2つの真理がこの言葉には込められています。一つは、私たちの神さまは、私たち一人一人をよくご存知であると言うことです。ですから私たちは父である神さまを信頼して祈ることができるのです。そして、もう一つは何が本当に私たちに必要なことかを適切に答えて下さるということです。ある時には、私たちの求め以上のめぐみを持って答えて下さいますし、どう祈ったらよいか分からない時には、私たちのすべてをご存知の神さまが聖霊をもって助けてくださるとともに祈るべき言葉を与えてくださるということです(ローマ8:26)。「私たちの祈り」と「祈願が中心の異邦人の祈り」との大きな違いは、父なる神さまのみ旨を求める祈りである点です。
最後に、私たちはなぜ祈るのでしょうか。それは、私たちクリスチャンにとって祈りは呼吸だからです。肉体が空気を呼吸しないと死んでしまうように、信仰生活も祈りをしないと死んでしまいます。祈りによって支えられ、祈りよって神さまと共に生きる者となるのです。宗教改革者のルターは、「祈りは神にとって必要ではなく、我々人間にとって必要なのだ」と言っています。私たちが神さまと生きた関係を持ち、生きた交わりを持つために祈りは不可欠なのです。先にも述べましたように、神さまに対する信頼から、神さまに呼びかけ、訴え、問いかける。それが祈りです。「ひとりの祈り・密室の祈り」も「共に祈る祈り・執り成しの祈り」もどちらも大切にして神さまと共に神の家族と共に生きていきたいものです。また、主の名によって祈る時、どんなにいたらない欠け多き者の祈りも主のみ名によって祈る時、主の執り成し(とりなし)によって父なる神さまが聞き届けて下さるのです(ヨハネ14:13)。祈りは、神さまと共に生きるバロメーターです。

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