マタイによる福音書 5章17~20節 「律法の完成のために」

法亢聖親牧師説教

説教題 「律法の完成のために」  マタイ5章17節~20節       

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5;17)

 このイエスさまの言葉は、イエスさまの教えが律法を否定する教えだと誤解した人々へ向けられた言葉です。誤解した一つの大きなグループは、祭司や律法学者たちです。そして、もう一つのグループは、イエスさまの教えは自分たちをがんじがらめにしてきた律法を排除する全く新しい教えだとして飛びついた人たち、つまり、多くのユダヤの民衆です。

 前者の人々は、厳格に聖書の信仰に立っていた人々です。彼らは、イエス・キリストが登場したことで怒り、動揺しました。「この男は律法を否定している。律法を無視している。神を汚している」。たとえば、安息日を守ることについてもそうでした。彼らはモーセの十戒の第4戒「安息日を心にとどめ、これを聖別せよ」とあり、安息日には絶対に何もしてはならないと考えていました。否、ユダヤの民に絶対服従させていたのです。なぜ、第4の戒めが与えられたのかを考えることなく、その恵みを味わうよりも、この戒めを字句通り受け止め絶対化したのです。こういうことを律法主義と言います。イエスさまが批判されたのは、律法ではなく律法主義だったのです。

 イエスさまは、安息日にも自由にふるまわれました。安息日に病人を癒され、そのほか繰り返し彼らを挑発する行為をされました。なぜ、律法主義者たちに対してあからさまにそのようなパフォーマンスをされたかと言いますと、安息日律法をないがしろにされたのではなく、形骸化した律法の精神がないがしろにされていることに対して批判されたのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)とおっしゃいました。

 律法の本来の精神は、それによって神さまを神さまとし、律法によってあらわされた神さまのみ心を知ることにあるのです。神さまはいつも人、私たちのことを思いやってくださり、愛してくださるお方なのです。

 イエスさまは、「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消えることはない。」(18節)とおっしゃいましたが、それは一字一句にとらわれると言うことではなく、むしろ律法の本来の精神のことを言っておられるのです。

 律法学者たちは、「イエスさまが律法を無視している」と誤解しましたが、そのことを逆の立場で誤解した人たちもいました。「もうメシアであるお方イエスさまがいらしたのだからもう律法などはいらない」と言う人々です。本日の聖書の箇所でのイエスさまの言葉は、どちらかと言うと、むしろ、こうした誤解をした人たちに語られた言葉だと思われます。

 パウロは、「人はその行いによって救われるのではなく、ただ信仰によってのみ救われる」とローマ書3章で言いました。そこには、どんなに律法を守ろうとしても完全には守ることはできない」と言う彼自身の葛藤がありました。「それでは救われる道があるのか」というところまで苦しみ追及し、最後に行き着いたのが「信仰によってのみ救われる」と言う福音でありました。ところが、パウロがこのように言った後、誤解、曲解して「行いはどうでもよい、律法もいらない」、という人が出てきたのです。こうした受け止め方は、極論ですが。律法とは、本来私たちがどのように生きていくべきか、と言う倫理・行動の規範を示すものです。

「信仰によってのみ救われる」と言うことは、決して「行いはどうでもよいということではなく、恵みによって救われた人間は、日々の生活の中で、自分が恵みによって生かされている」と言うことを、行いによって証していかなくてはならないと言うことです。自由にされたと言うことを取り違えて、生活の規範がなくなってしまってよいかというと、それは間違いです。これは私たちの現実の問題でもあるのです。パウロ自身も、次のように言っています。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(ローマ3:31)と。

 それでは、イエスさまは、律法をどのようにして完成されるのでしょうか。

 イエスさまは、そのご生涯を神さまと人々のためにささげ、そして、死なれたのでした。この御子イエス・キリストの生涯を一言で言うならば、「愛」と言う言葉につきます。パウロが言うように「愛は、律法を全うする」(ローマ13:10)のです。「たとえ、山を動かすほどの信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(Ⅰコリント13:2)のです。

 本日の聖句の冒頭に「わたしが来たのは、律法や預言者を完成するため」とあります。旧約聖書をユダヤ教徒は、「律法」と「預言者」と呼びます。

 そういう意味から、イエスさまは、旧約聖書の完成者であって旧約聖書が預言するメシアであり、律法を愛によって完成されたお方であるのです。このイエスさまを救い主として信じ受け入れた者は、神の子として救われるという新しい救いの契約を伝えているのが新約聖書であり、イエスさまは、旧約聖書の律法を守る者は救われるという旧い契約を超えて完成されたお方なのです。

 イエスさまの愛にうながされて、私たち自身もこの愛に生き始めること、それが律法の深い意義で有り、律法の精神です。

 「来るべき日に、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に」授け、彼らの心にそれを記す。わたしは、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ書31:33)

 この契約(預言)がイエス・キリストにおいて実現しました。イエス・キリストがこられたことによって、律法が本当に私たちのものとなったのです。

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