マタイによる福音書 3章1節~3節 「道備え」

2021年6月6日主日礼拝説教   法亢聖親牧師

説教題 「道備え」          マタイ3章1節~3節       

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」(マタイ3;1,2)私たちは、イエスさまが神の国(天の国)の福音を宣べ伝えられる前に、その道を備えた人がいたことを忘れてはならないと思います。それはバプテスマ(洗礼者)のヨハネと言う人物です。この人は、荒れ野に住んでいて「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)と宣べ伝えた旧約聖書、最後の預言者といわれた人物です。

イスラエルには、エリヤが嵐の中、火の馬車に乗って昇天して(列王記下2:11)以来、聖書にエリヤが死んだという記述がないことから、預言者エリヤが再来するという伝承がありました。当時のイスラエルの人々は、バプテスマのヨハネがエリヤの再来だと思い、ヨルダン川で悔い改め(神に立ち返るため)のバプテスマを授けていたヨハネのもとにやって来たのです。イエスさまのご在世当時のイスラエルは、格差が激しい社会で、ほとんどの民は極貧生活を強いられ、神の国(天の国)の到来を待ち望んでいました。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え。わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(イザヤ書40:35)とマタイは、イザヤ預言を引用してバプテスマのヨハネのことを紹介しています。このイザヤの預言は象徴的な表現で、私たちが生きている場所、つまり社会について述べているのです。旧約聖書の預言者たちは、公平で正義と慈しみに満ちた社会を実現していくことに大きな関心を持っていました。預言者イザヤもそのうちの一人です。「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ」と言うのは極端な貧しさがなくなり、極端な富の集中もなくなり、不公平がなくなっていくようにと言うことを指し示しているのです。また、「険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」と言うのは、不正がなくなり、正義が実現していくようにということを指し示しているのです。

そうした働きこそが、主の道を整え、その道筋をまっすぐにすることであり、それが実現して初めて、「主の栄光が現れるのを見る」ことが出来るというのです。ルカ福音書は、マタイ福音書より長くこのイザヤの預言の個所を引用し、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(ルカ3:5,6)。と記しています。ルカ福音書は、その道備えの仕事を「神の救い」にまで結びつけています。

バプテスマのヨハネの時代もそうでしたが、現在の私たちが生きている世界も公正で公平な社会とは言えないのが実態です。富を持つものは、権力を持ち、どんどん栄えていきます。他方、何も持たない貧しい者は、働いても、働いても暮らしが楽になりません。もっているものまで奪われて、より貧しくなっていきます。

こうしたひずみは、世界中の各地で起きています。日本も例外ではなく、コロナ禍にあって深刻な問題になっています。こうした、ひずみがなくなることを私たちの神さまは望んでおられるのだと思います。こうしたひずみ・貧富の差がなくなり、正義が実現していくよう祈り、そのために働くことはキリスト者の大事な使命であると思います。

かつて、日本のキリスト教世界には、「社会派」と「福音派」と呼ばれる不幸な分裂がありました。大雑把に言うと、あまり社会の問題には触れないで「霊の救い」や「キリストを信じれば救われる」ということを強調する人や教会を「福音派」と呼び、他方、「神さまの望まれる戦争や暴力、そして格差や差別のない公正と正義に満ちた世界を実現しよう」とする人や教会を「社会派」と呼びました。しかし、本来は、この二つは、切り離してはならないものだと思います。

第二次世界大戦中のドイツに、ナチスに抵抗し、最後はヒトラー暗殺計画まで企てる地下政治組織に加わったために処刑されたボンへッファーと言う神学者がいました。彼は信仰の問題を社会で苦しむ人の問題と切り離すことはできないと真剣に考えた人です。彼は、自著「キリスト教倫理」の中で信仰と社会で苦しむ人の問題を、「究極なもの」と「究極以前のもの」と呼びました。「究極なもの」とは、神さまと私たちに関すること、「究極以前のもの」とは、この世界に関することです。ボンへッファーは、「究極以前として、人権の問題や差別や抑圧をなくすことを考えていました。「究極のもの」と「究極以前のもの」は、一応別の事柄ですが、深くつながっています。ボンへッファーは、「神の究極の言葉の宣教と共に、究極以前のもののためにも配慮することが、どうしても必要になって来る」と言いました。なぜなら、この世界には、キリストの恵みの到来を妨げる人間の不自由、貧困、無知の深淵が存在するからです。福音宣教のためには、それらを取り除く必要があります。そのことをボンへッファーは、「道備え」と言いました。「道を備えるという課題は、キリスト・イエスが来たりたもうことを知っている者すべてに責任を負わせる。飢えた者にはパンを、家のない者には住まいを、権利を奪われた者には権利を、孤独な者には交わりを、奴隷たちには自由を提供することが必要である。つまり、『神などいない』としか思えない状況にあって、『神がおられる』ことを伝えようとすれば、『神が共におられる』ということが分かる状況を作り出して行かなければならないということだ」とボンへッファーは説いているのです。

私は、「究極のもの」だけを語るだけでなく、人権や生きる権利といった事柄にも関心を持つ必要があると思います。また、「究極のもの」を見失い「究極以前のこと」ばかりに熱中することは本末転倒だと思います。この二つ、つまり、「神さまのこと」と「この世界のこと」、「信仰の問題」と「社会の問題」の両方をきちんと見据えていくことが大切だと思います。このことこそが、ヨハネが備えた道、悔い改めのバプテスマの意味だと思います。即ち、神さまに立ち返り、主イエスを心の内にお迎えし、主と共に、主の道を歩むことこそ、天の国を備える道備えとなるのではないでしょうか。

 

 

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