創世記2章7節、使徒言行録2章1節~4節
「響き合う者に」

5月23日 ペンテコステ礼拝
法亢聖親牧師説教

説教題 「響き合う者に」   創世記2章7節、使徒言行録2章1節~4節

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった。」(創世記2;7)
私たちの体の血管の長さは、地球2周半にもおよぶのです。動脈、静脈、毛細血管までをつなぎ合わせるとそのような長さになるのです。つまり、血管は、体の隅々まで張り巡らされていて体のすべての部分に酸素と栄養を届けているのです。心臓から送り出された血液は、総延長地球2周半の血管を30秒から60秒で1周することになるのです。
「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった。・・・わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている」(詩編139:13、14)と詩編の詩人が歌っているように、本当に私たちは、互いに神さまによって尊い姿に形づくられているのです。
血管については、科学の目で解き明かされたものですが、聖書は別の方法で私たちを見、大切なことを説き明かしています。そのうちの一つが創世記2章7節です。私たち一人一人の内には「霊」というものが与えられているという洞察です。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった。」(創世記2;7)
「息」とは、旧約聖書の原語のヘブル語で「ルーアッハ」です。新約聖書の原語のギリシア語では「プネウマ」と言い、これらの言葉は、「風」「霊」「魂」と訳すこともできます。聖書において「息」「風」「霊」「魂」はつながったものと理解されています。創世記の人間創造の伝えるところは、次の通りです。神さまは土の塵から人を造り、しかも緻密につくられました。しかし、それだけでは人は生きたものとはならなかったのです。神さまから命の息である霊を吹き入れられて初めて、「生きる者」となったのです。この霊と言うものは、科学的に調べても調べようのない目に見えないものです。しかし、このことは私たち人間を理解し、私たちが生きていく上でとても大切な視点であるのです。
血液の働きが体全体の細胞の一つ一つに酸素と栄養を届けることであるならば、霊の働きは、「響き合わせること」と言えるのではないでしょうか。
「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(創世記2章18節)と記されているように、人は一人で生きるものではなく、共に生きる、響き合って(助け合って)生きるものとして造られたのです。
「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした。」(使徒2:2~4)
ここには激しく豊かな響き合いが起こったことが描かれています。何が響き合ったのでしょうか。一人一人にすでに分け与えられている内なる霊が、生きて働かれる神さまの霊である聖霊の働きかけに触れて大きく喜び、響き渡ったのです。
理科の実験で「音叉」をためしたことがある方もいらっしゃることと思います。同じ波長のものならば1本を鳴らすと近くのものが鳴り出します。そうです。共鳴とか共振という理科の実験です。私たちが神さまから命の息を分け与えられ、この世に送りだされてきたという聖書のメッセージは、ちょうど「霊」という「音叉」を一本ずつ与えられていると考えるとよいかと思います。その「音叉」を持って、私たちは同伴者として神さまとも響き合うように造られ、また隣人とよい響き合いを重ねつつ歩んでいくよう期待されているのです。しかし、音叉も錆びついてしまいますと響かなくなります。私たちの神さまと響き合う音叉である信仰はどうでしょうか。顧みて大分錆びついているので、磨かなくてはと思われている方もおられることと思います。そう聖霊を本日新たに受けて、私たちの音叉である信仰をリフレッシュしていただきたく思います。実に本日は、復活され天に帰られ聖霊となられてこの世に降臨されておられる、そのキリストの霊・聖霊降臨により教会が生まれた、弟子たちが福音を宣ベ伝える使徒と変えられた日なのです。

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