説教題 「人に見せるためでなく」 マタイによる福音書6章1節~4節
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたがたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはいけない。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
(マタイ6:1,2)
まず、はじめに「善行」について見てみましょう。イエスさまは、マタイ5章14~16節で「あなたがたは世の光である。・・あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい。」と言われ善行を勧めておられます。それは、自分がほめられるためではなく、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)とあるように、「人の前で善行をしないように注意しなさい」と言われたのは、人に見せようとするのではなく、天の父なる神さまがあがめられるようにしなさい。つまり、「善行」は、人にほめられるためではなく、目には見えないが、いつも私たちを見守って下さっておられる天の父なる神さまに対してしなさいと言うことです。そうすれば、父なる神さまがほめて下さるばかりか祝福し、報いてくださり、天国に宝をつむことになるということです(マタイ6:20b)。
次に、「偽善者」とは、どういう人のことなのかを見てみましょう。「偽善者」と訳されているギリシア語の「ヒポクリテース」は、「俳優」「役者」を意味する言葉です。演劇は、芸術であって私たちの世界のリアリティや人生の本質を鋭く描くものです。それを俳優や役者は、「見てもらうために」努力し演技を磨きます。そして、観客は、その表現を見て感動し喜ぶという約束ごとがあるのです。「見てもらう」というギリシア語の「アトロ」は、「劇場」と言う言葉の語源です。しかし、その演劇の世界のことを、劇場ではなく、日常の生活の中で、俳優でも役者でもない者が善人を演じるならば、「偽物の役者」「偽善者」になってしまうのです。そうです。イエスさまは、神さまではなく人にほめられる目的で、人に見せるため公共の場所で「施し」や「慈善」をする人を偽善者と呼んでおられるのです。
さて、「施し」について見てみましょう。
1節の「施し」と訳されているギリシア語の「エレ―モスネ―は、「慈善」「あわれみ」を意味する言葉です。マタイ5章7節の「あわれみ深い人たちは幸いです」と同義語です。こ
のあわれみ、つまり、無償の愛の心で、貧しい人に対して、お金や、食料、衣服、その
他の必需品を与えることが「施し」と言うことになるのです。イエスさまは、施しは、純粋の思いですることであって、「人に褒められたくて」「人から称賛を受けたくて」するというのは、正しい動機ではないとおっしゃっているのです。要するに、律法学者やファイサイ派の人たちの関心は、「人へのあわれみ」とか、「神さまのみ栄のために」とかでなく、あくまでも自分にあり人や神さまにはなかったのです。
ある人が言っています。「決定的なのは、観客ではなく、対象との関係だ」と。「施し」の場合は、対象は、貧しい隣人のことになります。人に見せるための「施し」と言うのは、一番大切な貧しい隣人との関係を二次的なものにしてしまいます。そして、本当に援助が必要な人のところに援助の手や心が届かないということが往々にして起こるのです。それどころか、対象となる人々の心には、自分たちは利用されただけだという無念さが残るだけです。
最後に、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」(マタイ6:3)と言うイエスさまのみ言葉の真の意味を考えてみましょう。
私たちは、2節にあるように、最初は純粋な動機で「善い行い」をしていたつもりのものが、いつの間にか「偽善」に代わってしまうことがあります。ラッパを吹き鳴らしたくなる、つまり、自分はこんないいことをしていると人に認めて欲しいというより、知ってもらいたいという誘惑が頭をもたげることがあるからです。本当の「善行」と「偽善」は紙一重です。善行と言うのは、いつも危険を伴っています。イエスさまは、その危険性をよく知っておられたのです。2節後半に、「彼らは既に報いを受けている」とありますが、これは、商業用語で「勘定がすんでいる」と言うことです。つまり、もう貸し借りはありませんと言うことです。私たちは、例えば施しとか何かよいことをする時、心のどこかで相手が感謝して当然と思っているのではないでしょうか。私自身も振り返ってみるとそのように思います。また、誰かが評価してくれないと悲しくなったり、不満になったりするものです。そのような、弱さを持っている私たちに、イエスさまは、人に評価されなくても、神さまがちゃんと見て下さっておられ、神さまが評価してくださるということをお示しになられるため、「右手のしたことを左手に知らせるな」と言われたのです。イエスさまは、「人に評価されたり、人に感謝された時、神さまにお会いする前に、あなた方の善い行いの計算(勘定)は済んでしまっているのですよ。それは結局、神さまがいらしてもいらっしゃらなくても同じことで、究極のところ神さまを信じていないことになってしまうのではないですか」と問うておられるのです。
♪ むくいいを望まで人に与えよ、 こは主のとうときみむねならずや、
水の上(え)に落ちて流れしたねも、 いずこの岸にか生(お)いたつものを。 ♪
(讃美歌21の566番1節)
神さまを見上げる時、この歌詞のように、見返りを求める計算ずくの世界から解放されて、見返りを求めない無償の愛の心をもって、隣人に接していくことができるようになるのです。父なる神さまは、御子イエス・キリストのゆえに、何のいさおしもない私たちをお救い下さり、神さまの子として下さったのですから、私たちも神さまのご栄光のために祈り求めつつ、報いを求めないで愛の業に励んでまいりましょう。神の国に向かって!